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なぜ街道をゆく

街道・宿場等の交通施設の整備が進み、治安が安定し、貨幣経済の浸透した江戸時代には、多くの人々が旅に出ることが出来るようになった。

身分・性別・年齢・職業によって、街道を歩く目的は異なり多種多様であった。武士の旅は、参勤交代をはじめ、江戸での勤番や各地の巡見といった公務が基本であった。一年おきに領地と江戸を往復する参勤交代は、藩主を筆頭に総勢240人程の藩士が移動するものであった。領内に在国する間は、藩主自ら領内の視察を行い、巡見することもあった。また、藩士が藩の御用により藩内を巡り歩くこともあった。こうした機会に、公務を全うするだけでなく、旅先の地誌や風景に高い関心を持ち、自らの見聞などを詳細に記録する者もいた。

庶民の旅は、伊勢神宮や日光東照宮等の寺社へ参詣する信仰の旅だった。庶民の長旅の機会は限られており、一種の憧れで、参詣に加えて景勝地などを巡る物見遊山も行われた。同様に、湯治と物見遊山を兼ねる旅が多くなり、寺社参詣や湯治を口実にした物見遊山を楽しむことは度々禁止されるほどであった。江戸時代の人々も心と体を癒す旅を求め、街道を歩いていた。

御殿様、街道をゆく

南部藩大名行列図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:31/122)

「南部藩大名行列図」部分

「南部藩大名行列図」部分

江戸時代、諸大名が参勤交代によって江戸と国元を往復した際の行列を大名行列と呼んだ。参勤交代は、一定期間、諸大名を江戸に参勤させるもので、寛永12年(1635)の武家諸法度の改定によって制度化され、在府、在国が一年交代とされた。大名は、往復と二重生活とによって出費が多くなり、財政は窮迫した。反面、交通施設は整備され、文化が交流することとなった。

当館所蔵資料は、江戸城に正月参賀する盛岡藩主の行列を描いた「御行列図巻」(もりおか歴史文化館所蔵)の写しと考えられている。しかし、人物の描き方などは文久3年(1863)京都御所へ参内した際に描かれた「南部利剛公京都参内図誌」(花巻市博物館所蔵)に類似しているように見える。

槍 銘 濃州之住長俊[パネル]

岩手県立博物館所蔵・画像提供

平三角の笹穂槍と呼ばれる、笹の葉形をした槍である。この槍は、南部重直(しげなお)が「賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍」と称された加藤嘉明(よしあき)の娘と結婚する際に、加藤家から贈られたと伝えられている。賤ヶ岳七本槍の一つとも言われるこの槍は、「放下通し」や「唐頭」などの別号があり、南部家では、行列の先頭にこの槍を飾ったという。

向鶴紋蒔絵陣笠[パネル]

岩手県立博物館所蔵・画像提供

室町時代以来、陣中で主として足軽、雑兵などが用いた笠であったが、後世には上級の武士の軍役、火事などの非常用や通常の遠行などの外出用として用いた。「盛岡藩参勤交代図巻」では、陣笠をかぶっているのは馬上の14人だけで、他は菅の一文字笠をかぶるか、手に持つなどしている。この陣笠は、黒漆が塗られ、向鶴紋が三ヶ所に金で高蒔絵(たかまきえ)されている。

〔文書原本襍綴〕 先触

岩手県立図書館所蔵(請求記号:04/6)

南部弥六郎(南部済賢(ただかつ))が、江戸から盛岡に帰国する際、事前に千住から金ヶ崎の各駅の問屋に対して、人馬の継立や休み・宿泊などの手配をさせる通知書。盛岡藩家老席日誌『覚書』安政2年(1855)8月14日条に、御用のため7月29日に江戸を出発し、8月13日夕に盛岡に到着したとある。この年5月29日江戸で永久蟄居(ちっきょ)していた南部利済(としただ)が没し、また7月3日には三陸で大地震が起き大きな被害が出ている。

道中記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22/49)

「道中記」駕籠の中に用意する道具類

「道中記」駕籠の中に用意する道具類

盛岡藩士の田鎖高守が参勤交代に関する諸心得を記した道中記。殿様の乗る駕籠の中に用意する道具類についても記されている。駕籠の一番前の方に、奉書紙と御守札があり、次いで花立(花瓶)と煙草入れが置いてある。殿様の周りには煙管などをのせるお盆、蒼述(そうじゅつ 湿気をとる薬草)、道中記(旅行案内書)、時計、行燈(あんどん)、薬箱などが置かれ、後には抱巻(膝掛け)、梅干も用意されていた。参勤交代は2週間にも及ぶ大旅行であり、様々な状況を想定し準備を行ったと思われる。

安政三年四月二十四日奥通へ御巡見御行列 三閉伊通御巡見御行列帳 三閉伊通御巡見御通行御道筋里数並御昼泊附

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5/68)

盛岡藩主南部利剛(としひさ)が領内の海岸御備向ならびに御台場設置のため巡見した際の行程、行列順を記録したもの。安政3年(1856)春に奥通(下北半島)の巡見が行われ、続けて秋に三閉伊通の巡見が行われる予定であったが、7月に大地震が発生し、村々が困窮しているため巡視は延期された。御台場のほか大橋鉄鉱山の見分や尾崎神社への参詣も行われている。約60名の御供を連れ立ち、各地の有力者の家に休憩や宿泊をしながら24日間の巡見の旅であった。

御本陣図

もりおか歴史文化館所蔵

奥州街道の宿場の本陣の間取りを記した図面。盛岡藩主が参勤交代時に立ち寄る本陣の間取りを調査し、作成したとみられる。図面の黄色の部屋は盛岡藩が宿泊した際に使用すると見られる。日程により異なるが、仙台藩領内では、水沢、前沢、一関などに本陣が置かれていた。水沢本陣は盛岡藩南部氏や蝦夷福山藩松前氏が参勤交代時に利用した。

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御用の旅

雑書 文化二年正月二日、正月十五日[パネル]

マイクロフィルム複製(原本所蔵 もりおか歴史文化館)

前年に盛岡藩主南部利敬(としたか)が四位階昇進したことにより、正月二日に奥瀬舎人を京都への使者に命じ、また利敬は同日江戸城へ登城している。その際の行列の様子が記されている。「道中心得」によれば、この時の行列は格式行列と呼ばれるものであった。御供の服装は、「御刀番布衣」、「御供頭素袍」、「御棒先・御簾脇御鞘巻持素袍着用」、「手明御次のしめ上下」などであった。

道中心得

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新31/45)

「道中心得」御道中身廻

「道中記」御道中身廻

盛岡藩士が参勤交代に関する諸心得を記した道中記。街道筋の宿場・里程、持ち物、道中で過去におきた出来事の事例などが詳細に記されている。御道中身廻(身の廻りの細かい持ち物)については、菅笠、草履、脚絆、羽織などの衣類に加え、扇子、矢立(携帯用の筆記用具)、煙草入れ、道中記などの文具などが持ち物として記されている。

京都御用留帳

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5/129/240)

寛政年間(1789-1801)以来、蝦夷地警衛の重い役目を担ってきた盛岡藩はその功により、文化元年(1804)12月藩主南部利敬(としたか)が23歳の若さで従四位下となることを許される。四位以上の大名の任官は、大名の使者が幕府からの官位奏請の奉書を持って京都所司代、朝廷に伺い、位記・宣旨を受け取る手続きであったため、その使者として、江戸藩邸に詰めていた奥瀬舎人が京都へ遣わされた。奉書などを入れる長持など持ち、奥瀬の供廻なども合わせて総勢37人で江戸屋敷から京都まで東海道を往復したようである。

松前箱舘道法記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新22/87)

「松前箱舘道法記」南部勤番所周辺

「松前箱舘道法記」南部勤番所周辺

寛政年間(1789-1801)に蝦夷地にロシア船が来航して以来、幕府・藩役人が頻繁に往来するようになり、北へ向かう道、蝦夷地内の行程などが必要とされるようになった。クナシリ海峡に臨む野付(北海道野付郡別海町)から箱館(函館市)までの東蝦夷地沿岸部の、会所・勤番所が置かれた地点の様子が描かれている。

東海木曽両道中懐宝図鑑

岩手県立図書館所蔵(請求記号:291.08/ノム2)

東海道と中山道を上下二段に分けて一宿ずつ見開きで紹介したもの。上段の東海道は江戸から京へ上る順序で、下段の中山道は京から江戸への下りの順序で描かれている。裏表紙には、「天保十一年子八月大坂登之節於江府相求也」と記されており、大坂への御用のため江戸で買い求められたようである。

伝馬手形

岩手県立図書館所蔵(請求記号:64/19、68/1)

「伝馬手形」(64/19)

「伝馬手形 文化7年(1810)10月3日付」

大名の支配領内において公用で街道を往来する役人のため、各宿駅で人馬の継立を命ずる文書である。江戸幕府は、寛永年間(1624-44)には制度化して、幕府や諸侯の公用逓送(ていそう)機関として重要な役割を果たした。盛岡藩においては、本格的な伝馬制度を実施したのは元禄年間(1688-1703)で、各宿駅間の運送費などを定めたといわれている。人足(継夫)や伝馬は石高に応じて各村に負担させ、負担できない場合は公定の伝馬賃金分を金納させた。

【伝馬手形 文化7年(1810)10月3日付】(64/19)
大光寺彦右衛門が内代として田名部へ行くための盛岡より田名部まで、継夫2人、伝馬2匹を使用することが認められている。

【伝馬手形 文久元年(1861)5月2日付】(68/1)
久慈門太が大槌橋野鉄鉱山へ御用のため出かけるので、伝馬1匹の使用が認められている。

【伝馬手形 安政2年(1855)11月9日付】(68/1)
久慈門太が御供として出かけるため鬼柳から城下までの伝馬の利用が認められている。

三閉伊日記[パネル]

岩手県立博物館所蔵・画像提供

嘉永7年(1854)3~5月に、盛岡藩士の長沢文作と大矢文治が公用で領内を旅した際の日記。盛岡から野田へ向かい、そこから釜石まで海岸沿いを南下し、遠野を通って1ヶ月半後、大迫に到着している。万所金(諸士が参勤交代で江戸へ登る際の積立金)の取立と、嘉永6年(1853)11月、三閉伊通百姓一揆が収束した後、野田通の田野畑・普代村は南部弥六郎の預地となったため、その引渡しの立合いの御用であった。公務の合間に宮古黒森神社や釜石尾崎神社への参詣も行われている。

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御暇頂き、湯治へ

内史略 后五[南部利謹湯治]

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5/1)

「内史略 后五」南部利謹湯治

「内史略 后五」南部利謹湯治

盛岡藩士横川良助が記した前編24冊・後編20冊からなる盛岡藩の歴史書。藩の財政事情、百姓一揆、凶作など盛岡藩の社会情勢についても記録されている。

安永3年(1774)9月南部利謹(としのり)が湯治療養のため盛岡へ帰国する際、幕府へ湯治のための御暇(江戸から在所への帰国)を願い出ている。

篤焉家訓

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5/2)

「篤焉家訓 七巻ノ二」湯治之部

「篤焉家訓 七巻ノ二」湯治之部

盛岡藩の記録方などを務めた市原郡右衛門(篤焉と号す)が、中世から近世に至る藩内の諸記録を編集したもの。安永年間(1772-1781)についてまとめられた部分に湯治に関する記録が見られる。藩士が湯治などに出かける場合も藩に届け出る必要があり、入湯二廻り(七日一廻りで、約2週間)が原則であったようである。文化10年(1813)には盛岡藩の藩士の湯治は鴬宿(雫石町)と台(花巻市)の2ヵ所に限定されるようになった。

雫石通細見路方記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22/53)

「雫石通細見路方記」鶯宿温泉

「雫石通細見路方記」鶯宿温泉

岩手郡雫石村の名所や旧跡の由来などが絵を添えて記されている。網張、国見、鶯宿、繋温泉が紹介され、鶯宿景所名産として、八百平、大滝、男助山、女助山、水晶石、春のつつじ、夏の郭公水鶏、秋の紅葉、などが挙げられている。また、繋の由来については、源義家が石に愛馬を繋ぎ、湯に入れて傷を癒したことによると伝えている。

鴬宿入浴記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新91.1/69)

盛岡藩士の三輪秀福が記したと伝えられている。三輪家は、秀福の祖父(秀寿)が国学者として藩主に仕え、盛岡藩の歌道をけん引した家柄である。秀福は、杉斉・良杉斉と号し、冷泉様の書風をよくし、「旧蹟遺聞」なども編纂した。鴬宿に湯治した際に、道すがらの風景や光景などを和歌に詠んだものと思われる。三保女(漆戸三保、三輪秀福姉妹か)などの女性が詠んだ和歌が多く見られる。

鉛湯大湯浴中記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新22/81)

「鉛湯大湯浴中記」鉛温泉場図

「鉛湯大湯浴中記」鉛温泉場図

盛岡藩士の菊池武候が鉛温泉(花巻市)と大湯温泉(秋田県鹿角市)に湯治した際に記した紀行。温泉へ向かう途中や温泉周辺の風景などを詠んだ俳句、温泉場の図なども記されている。文政7年(1824)8月に大湯温泉へ湯治した際は、十和田山へも出かけ、周辺の景色や風物なども楽しんだようである。

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一度は参りたい

〔文書原本襍綴〕 寺請往来証文

岩手県立図書館所蔵(請求記号:04/6)

「寺請往来証文」

「寺請往来証文」

盛岡城下祇陀寺(ぎだじ)が嘉永2年(1849)2月に、伊勢参宮・諸国神社仏閣の順拝に出かける、檀家の市兵衛(56歳)へ発行したもの。庶民が旅行をする際、必ず携行した身元証明書で、主に菩提寺が発行する。はじめに手形所持者の宗旨、住所・氏名を記し、当寺の檀那であることが明記される。旅行の目的(参拝、巡礼、湯治など)を記し、万一病死した場合にはその所の作法による処置を依頼している。

熊野札所路次

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22.9/31)

西国三十三カ所観音霊場のうち、1番札所那智山青岸渡寺(なちさん せいがんとじ)から始まり、紀伊半島を巡って、壷坂寺(つぼさかでら)・長谷寺(はせでら)など吉野・奈良に入り、さらに北上して大津琵琶湖南周辺の14番札所大津三井寺を巡礼して、京都市街に入るまでの行程、里数、巡礼の寺(▲印)が記されている。刊行したのは京都柳馬場の宿屋「おうぎや」で、伊勢参宮の後、西国の観音霊場を巡りながら京都までの里程などを記しており、伊勢参りなどの巡礼者に配ったものと考えられる。

奥道中歌

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新37/6)

「奥道中歌」

「奥道中歌」

文政2年(1819)に出版された仙台国分以北の奥州街道筋の宿場を、暗唱しやすいよう和歌に詠み込んだ往来物。往来物は、江戸時代寺子屋などで教科書として用いられたもので、作文や手紙を書くための単語集や文案・文例集であったり、さらに社会常識、実用知識なども盛り込まれた内容のものもあった。寺子屋などで習った道中歌を歌いつつ、旅に出たのだろうか。

道中記(伊勢)

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5/162/43)

「道中記(伊勢)」

「道中記(伊勢)」

美濃屋(のちに幾久屋)は、郡山(紫波町日詰)で呉服商を営んでいた豪商である。美濃国の刀工・関孫六の子孫で、京都で呉服商を営んでいたのが郡山へ来往したという。京本家と同族の江戸の美濃屋が立ち寄り先として記されている。買物控には、お土産や頼まれたもの(笄(こうがい)、扇子5本、花かんざし10本、万病に効くという万金丹(まんきんたん)、日本道中記など)等が見える。江戸時代の庶民は、伊勢参宮を目的とした集まりをつくり、旅費を積み立て、くじで代表を選んで交代で参詣していた

金毘羅参詣紀行

岩手県立図書館所蔵(請求記号:94/24)

尾去沢銅山山先や勘定奉行などを務めた盛岡藩士の奈良養斎は、大阪で遊学した際の文政4年(1821)10月に許しを得て讃岐の金比羅参りをした。船で渡った丸亀から見える讃岐富士とも呼ばれた飯山や、金毘羅本社のある象頭山(ぞうずさん)の景色が描かれる。金毘羅本社までの参道の様子(1町ごとに石標があり、水をくれる人や猿回し、物乞いの人達が多くいる様子など)が記されている。

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