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街道をつくる

道は、元来自然の中に人が行き来して作られたものであったが、時に人々は利便性を求め新たな道を生み出し、生活を豊かにしようと試みてきた。街道の維持・改修、新たな開発は、多数の労働力を必要とし、山間部や川筋等の難所では、洪水など自然災害に見舞われることもある一大事業だった。

盛岡藩内の街道改修事業では、宮古市和井内(わいない)出身の牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)和尚による宮古(閉伊)街道(盛岡城下と宮古を結ぶ街道)の普請が、特にも語り継がれている。宮古街道は、沿岸の海産物を内陸にもたらし、北上山地の林産資源を運び出す重要な交易路だったが、難所が多く、江戸時代中期まで整備が進まなかった。鞭牛は宝暦8年(1758)、最大の難所である蟇目(ひきめ)-平津戸(ひらつと)間の改修に乗り出し、近隣の村から多くの人々を募って普請を行い、以後も周辺の道路改修に生涯をささげた。その支援者には漁業や廻船業の関係者とみられる人々が多く、沿岸の物資を盛岡城下に運ぶ狙いがあったと考えられている。道や橋が永久に破損することなく安全に通行できることを願い、鞭牛は難所に道供養碑を建てている。こうした先人たちの努力や願いによって多くの道が開かれ、そして守られてきた。現代に生きる私たちもその恩恵を受けて生活している。

街道を作る

郷村故実見聞記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新32/59)

「郷村故実見聞記」諸国一里塚始之事・御領内新道造並木植立候事

「郷村故実見聞記」
諸国一里塚始之事
御領内新道造並木植立候事

文化元年(1804)、盛岡藩士の阿部九兵衛(知義)が記した新田開発、各種の普請、検地定目に関する記録をまとめたもの。「諸国一里塚始之事」には、慶長9年(1604)に台命(将軍または三公などの命令)により、江戸から役人が派遣され、「東奥の駅路」に一里塚が築かれたと記されている。また、「御領内新道造並木植立候事」には、明暦4年(1658)に領内の曲がった道や山道には新たな道を造り、日光街道のように道の左右に松を植え行程を調査せよとの命令が出されている。

釜石新道図[パネル]

釜石市郷土資料館所蔵・画像提供

文政5年(1822)、釜石の富豪佐野與治右衛門は、釜石から遠野への路を難路である仙人峠を避けるため新道を作ることを申し出た。この新道は、小川口に沿ってさかのぼって小川温泉の先から山を登り、橋野と甲子境の尾根道を通って遠野佐比内に下りるルートであった。距離が短かったにもかかわらず標高の高い尾根道であったことや、甲子町の反対陳情などにより、短期間で廃絶したようである。

御城下ヨリ宮古迄街道図面

もりおか歴史文化館所蔵

宮古街道は難所続きの道筋で、2泊3日の行程で往来されていた。距離を短縮するため難所の改修工事が行われた際に作成された図面と見られる。朱・黄・萌黄色の3色で道が描かれ、萌黄色の道は短縮された道を表している。難所には▲の記号を付し、難所28ヶ所のうち普請が終了した17ヶ所には、記号近くに「スミ」と記されている。川内村の明神越と茂市村の刈屋川落合の難所が萌黄色のルートになると非常に短縮されるとされている。

戸川通往還難所工事諸留

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新51/2)

「戸川通往還難所工事諸留」熊の穴

「戸川通往還難所工事諸留」熊の穴

「戸川通往還難所工事諸留」熊の穴

(巻頭題:戸川通往還筋蟇目村より川内村迄七ケ村之内難所之道此度普請仕候場所見分書出之覚)

宝暦8年(1758)、牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)和尚(1710-1782)が行った道普請の人足と難所十ヶ所について図入りで記された覚書の控。「戸川」と呼ばれた閉伊川沿いの道は難所が非常に多く、幾度となく開発と改修の土木工事が行われ、ルートも幾筋か存在した。宮古市蟇目(ひきめ)の「熊の穴」と呼ばれる難所にも鞭牛の自筆自刻の供養碑が建てられたことが記されている。

牧庵鞭牛道路開削工具[パネル]

個人蔵/宮古市教育委員会画像提供

宮古市和井内の鞭牛生家に伝わる鞭牛使用の工具類(ゲンノウ、ツルハシ、アサリ、スイサビなど)。岩を砕くゲンノウは大型の金槌であるが、球形にまで変形しており、道路開削の困難を物語るものと言われている。これらは江戸時代に鉱山で使われたり、石工が使う道具であると考えられている。宮古市の有形文化財に指定されている。

閉伊街道図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:39/128)

「閉伊街道図」部分

「閉伊街道図」部分

城下盛岡と盛岡藩の主要湊の一つ宮古湊を結ぶ街道の普請図。当館には、閉伊川河口の宮古湊から始まり川目村(現盛岡市川目)までの図(請求記号:39/128)と、城下鉈屋町から始まり古田村(現宮古市川井)までの図(請求記号:22.3/64)の2巻がある。朱と黄色(旧ルート)で道が描かれ、数種類の付箋が貼付され、工事が行われる度に使用されたものと思われる。白い貼紙に難所の様子や人足や石工などの人数が記されている。

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