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街道の旅 ~名所・名物~

旅が人々の中で身近になり、楽しむものになった江戸時代中期以降になると、旅の手引書や名所案内などが数多く出版された。また幕府が命じた産物調査などにより、土地ごとの産物などの知識や情報が庶民の間にも広まり、各地の名物・産物は旅の楽しみとされた。

和歌に詠み込まれた景物は「歌枕」として定着し、全国的に名所として認識されるようになり、名所を訪れることも旅の目的・楽しみの一つとなった。そして名所の風景など旅先で見た感動を、和歌や俳句に詠み込んだ。陸奥国は旅人を惹きつけた「歌枕」が多く、その比定地が複数あることが少なくなかった。例えば、歌枕の「岩手山」は、仙台藩では玉造郡の岩出山(宮城県大崎市)であるといい、盛岡藩では岩鷲山(岩手山)であると語られてきた。各藩では、自領内に古歌や歌枕の地があると主張し競合することがあった。

名所は、その地域の歴史や由緒を示して、土地の知名度を高める力があると考えられていた。そのため、名所が名物の来歴・由緒と結びつくこともあった。名所を巡って風景などを眺め、ゆかりの場所で売られている名物を味わうことが江戸時代でも行われるようになっていた。

街道の旅

奥州磐井郡平泉郷奥羽二国太守鎮守府将軍藤原清衡基衡秀衡三公堂塔建立之地名所旧跡惣絵図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22.3/60)

文化元年(1804)、盛岡藩士の阿部九兵衛(知義)が記した新田開発、各種の普請、検地定目に関する記録をまとめたもの。「諸国一里塚始之事」には、慶長9年(1604)に台命(将軍または三公などの命令)により、江戸から役人が派遣され、「東奥の駅路」に一里塚が築かれたと記されている。また、「御領内新道造並木植立候事」には、明暦4年(1658)に領内の曲がった道や山道には新たな道を造り、日光街道のように道の左右に松を植え行程を調査せよとの命令が出されている。

名処順道記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22/86)

「名処順道記」

「名処順道記」

盛岡藩士の清水秋全が宝暦元年(1751)に盛岡藩御領内の和歌に詠まれた名所などを図入りで紹介したもの。清水秋全は歌道に通じ、藩主の命により仙台藩と盛岡藩にある名所の虚偽を確かめ、盛岡藩領内の名所、歌枕を記している。秋田藩、仙台藩においては、古歌や歌枕を自領内に取り込み、特定しようとする動きがあ った。その動きに対抗し、盛岡藩でも領内にあることを力説している。

奥南国中都鄙山海産物記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新60.9/1)

文久2年(1862)に盛岡藩士の神安就が、盛岡藩領内の産物を記したもの。代官所(通)ごとに村々の特産物が列記されている。享保~元文年間(1716-1740)にかけて、幕府により全国産物調査が命じられ、盛岡藩でも領内各地の調査が行われ産物帳が作成された。産物調査により国内資源の把握と開発、知識の普及が図られた。

仙台領内名所古跡記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新22/79)

「仙台領内名所古跡記」

「仙台領内名所古跡記」

あつかし山、不忘の山からはじまり、仙台藩領内にあるとされる名所・古跡を列記している。古跡はその歴史や由緒を紹介し、名所では詠み込まれた和歌などを紹介している。記された名所の中には、都島、末松山、十府浦など盛岡藩と競合し、重複している名所・旧跡もみられる。当資料には、「本間文庫」と蔵書印があり、一関藩士で有職故実を研究した本間百里(ほんまひゃくり)の蔵書とみられる。

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