罹災者の救護医療に活躍

柴 琢治(しば たくじ) [1865-1947]

柴琢治は、気仙郡唐丹村(現釜石市)の医師である鈴木三折の次男として生まれました。少年時代は地域で一番の暴れん坊でしたが、1877年(明治10)頃に上京して警視庁巡査となり、その後、大阪で検事の書生として法律を学びました。1890年(明治23)父の訃報に接し帰郷した琢治は、医師である兄の助手をしながら医術を学び、1892年(明治25)に限地開業(医師のいない地域限定の開業)を許されました。

1896年(明治29)6月15日の晩、津波が村を襲い、釜石地方は大きな被害を受けました。琢治は自宅を開放してけが人を収容し、救援の医師たちが駆けつけるまで不眠不休で手当を続け、村の救済復旧のために奔走しました。

1898年(明治31)4月、唐丹村議会の満場一致をもって村長に任命された琢治は、早速村の復興に取り掛かり、小学校・村役場の再建、宅地造成と住宅建設の助成、道路改修工事などを計画します。村の指導者たちが復興費用の捻出に頭を悩ませていたところ、琢治は村有林の立木売却を提案し、自分の全責任で村の財政再建にあたると豪語しました。実際は村有林に隣接する帝室御用林の盗伐が狙いであり、後に琢治に司直の手が迫ります。しかし、盗伐の発端が被災地復興のための窮余の行為であったこと、また、売却に際して私利私欲が存在しないこと、何より村民の琢治に対する思いから、裁判所側の心証も同情的となり、ついに証拠不十分として釈放されました。

参考文献

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