震災後の母子救済に手を差し伸べた

煙山 八重子(けむやま やえこ) [1881-1955]

弁護士・国会議員である伊東圭介の次女として生まれた八重子は、盛岡女学校(現盛岡白百合学園高校)卒業後、明治女学校普通科を経て、母校盛岡女学校などで教鞭をとっていました。夫である煙山専太郎は、早稲田大学史学科充実の功労者として知られています。

1923年(大正12)9月1日、関東一円に甚大な被害をもたらした関東大震災が発生。八重子が住んでいた地域はほとんど被害を受けませんでしたが、下町を中心とした地域の惨状は目を覆うばかりのものでした。配偶者や帰る場所を失い、子どもに与えるミルクもなく困り果てた母親たちの姿を目の当たりにした八重子は、「何か私たちにできることはないか」と、友人の新渡戸コト(新渡戸稲造の養女)、塚原ハマ(盛岡女学校の同窓生)らとともに立ち上がります。3人は基金づくりに奔走し、内務省、東京市、大震災善後会からの援助を得て、東京巣鴨上富士町に20畳ほどのバラック建ての母子寮「愛の家」を設立し、被災した母子たちを救護しました。また、単に被災婦人を救護するだけにとどまらず、平時であっても扶養者を失った母子の生活の安全と向上を計ることが必要であると考えた八重子は、託児所、授産および職業相談なども行い、日本における母子生活支援施設の礎を築きました。「愛の家」の活動は、公的な団体からの支援ばかりでなく、個人寄付やボランティア、友人たちの協力、そして夫・専太郎の理解により支えられました。

参考文献

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