• 橘正一と方言
  • 方言と方言研究
  • わたしたちの方言

現在位置: トップページ > 第1章 橘正一と方言

第1章 橘正一と方言

橘正一

橘正一 肖像写真

橘正一 35歳
(昭和11年10月15日撮影)

橘正一(たちばな しょういち)は、明治35年(1902)盛岡市新馬町(しんうままち 現・松尾町)中通りに生まれました。

正一は数学に長じ、大正8年(1919)盛岡中学校の4年級から仙台の第二高等学校理科甲類に入学します。この時、正一の母は、仙台は方角が良くないと言い進学に反対したといいます。医学専攻を志していた正一でしたが、卒業直前、結核による肺浸潤のため、帰郷を余儀なくされます。高校卒業の資格は与えられたものの、そのまま病臥する身となりました。

正一はやがて土俗、方言の研究において、熱心に活動するようになります。

一時健康を回復した正一は、昭和12年(1937)第2学期より、私立岩手商業学校(現・江南義塾盛岡高等学校)及び私立岩手高等予備校の国語教師に就任しました。しかし学校に勤めるようになってから健康状態が再び悪化。約半年後辞職し、再び病の床に伏すようになります。正一は病臥中、訪問客を極度に嫌い、特に再悪化してからはほとんど誰にも会わなかったといいます。正一は同15年(1940)、39歳の若さで没しました。

ページの一番上へ

正一の仕事

企画展「おらほのことば~橘正一没後80年~」展示風景

病身の正一が方言研究を志したのは父・正三(しょうぞう)の感化もあったと思われますが、妹の娘には「方言をやっていれば寝ていても食えるからな」と冗談半分に語ったこともあるそうです。

昭和5年(1930)29歳の時、会員組織で『方言と土俗』(謄写版)を創刊します。会員は3府30県にわたり、冊子は200部刷られました。同誌は同9年(1934)通計45冊で廃刊となります。同11年(1936)育英書院から『方言学概論』を出版。翌12年(1937)厚生閣から『方言読本』を出し、翌月重版となります。

正一は「歴史上の無縁の仏」である民衆のために、彼らの歴史を明らかにするという意図を、「土俗方言の学を志して以来、須臾(しゅゆ)も忘れぬ」と記しています。

正一は病勢が悪化してからも、研究発表のため方言個人雑誌(謄写版)の刊行を計画します。また、昭和3年以来既刊の方言集から13万枚のカードを作成し、これを部門別に分けました。正一の編集していた『分類全国方言辞典』は同14年(1939)より刊行されますが、第4巻を限りに中絶します。

父・橘正三

橘不染雑録 表紙

橘不染雑録 内容

『橘不染雑録 5巻』橘不染(正三)∥著
[当館所蔵]

正一が、病床にありながら土俗方言に興味を寄せたのは、父・正三(雅号:不染 ふせん)の影響が大きかったとみられます。

正三は安政6年(1859)盛岡市上の橋通り紙町に生まれ、上京して警視庁の巡査となり、西南戦争を経て明治13年(1880)自由民権運動の取り締まりのため盛岡警察署に転勤します。しかし翌年、県内で中心的に活動していた自由民権運動結社「求我社(きゅうがしゃ)」に共鳴して退職。岩手新聞社に入社し求我社の党友となります。その後は八幡町の函番(はこばん 芸妓の取次ぎや玉代の精算などを行う事務所)に関わり、芸妓の育成などに努めました。また、民俗や郷土史研究のほか茶道・俳句・邦楽も嗜みました。

正三に関する約50点の資料群(主に警察官や消防手の辞令など正三自身の履歴に関する資料や、明治以降に記された盛岡・岩手の風俗・風習や茶道についての資料)が、当館に残されています。

ページの一番上へ