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第2章 方言と方言研究

方言の位置づけ

企画展「おらほのことば~橘正一没後80年~」展示風景

ある言語について、語彙やアクセントが微妙に異なりつつも、同時代に、地理的に連続しながら分布しているのが方言の特徴です。政治・経済・文化的中心地で用いられるものを「標準語」あるいは「共通語」と呼び、周辺部で使われるものを「方言」と呼びます。

公共機関、マスメディア、教育現場などで用いられ、日本人の大多数が広く意思疎通を行うために用いているものを戦前までは主に「標準語」と呼びましたが、戦後は教育現場を中心に「共通語」という用語が用いられるようになりました。近世以前については、文化的中心地で用いられた文献資料に現れるものを「中央語」とよぶことがあります。

「方言」ということばを避けて「地域語」と言い換えることや、また、「生活語」として位置づける見方もあります。このことは生活に根差した方言が、多様な言語変種を含む日本語の中で重要な役割を担っていることを如実に表していると解釈できます。

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方言と地理

方言は、最初から今のような形で用いられていたわけではなく、歴史の流れの中で作り上げられてきたものです。方言地理学(言語地理学)は19世紀末期にヨーロッパで生まれた、地理的側面から方言(言語)を研究する学問で、過去や現在における一時代のことばの地理的分布から、それぞれの場所におけることばの変遷を推定することを目的とします。どこでどのようなことばが使われているかを示す言語地図により方言の分布を扱い、分布の位置からことばの歴史を明らかにしようという、「方言周圏論(しゅうけんろん)」などの考え方に通じる学問です。

基本的に方言は、中央語の地方への伝播と、地方における独自の変化により形成されていきます。中央から地方に伝播しやすいことばは庶民階層の話しことばであり、古典に見られることばが各地に伝わり、方言となって残っている例も多く確認できます。

また方言形成には、背景となる自然や文化・社会の地域性が影響します。ある方言的な特徴が一定の地域にみられる場合、その地域には特有の自然や文化が存在する可能性があるのです。

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方言周圏論

企画展「おらほのことば~橘正一没後80年~」展示風景

柳田國男(やなぎた くにお)は カタツムリ(蝸牛)の呼び名の分布を調査し、「蝸牛考(かぎゅうこう)」を著しました。デンデンムシ系の呼称を用いる近畿を中心にして、マイマイ系・カタツムリ系などの呼び名で呼ぶ地域が波紋状に広がっていることに、柳田は着目したのです。

山地や辺境に古い風習や語彙が残るという現象に着想を得た柳田は、方言の要素が文化的中心地を中心として同心円状に分布するという「周圏分布」を見出しました。文化的中心地の言葉は周辺部に伝播し、受容されて広がっていくため、中心地から地理的に近い地域には発生の新しい言い方が分布し、遠い地域には発生の古い言い方が残ると考えられます。こうした考え方を柳田は「方言周圏論」と名付けました。

周圏分布の中心地は、新しい文化事象を生み出し周辺部に影響を及ぼし得る「都」であり、長らく近畿中央部がその位置にありました。周圏論は語彙の分野において当てはまりやすく、音韻やアクセントの分野においては周辺部の地域で独自の変化が起こるという考え方「方言孤立変遷論」が当てはまりやすいといわれ、時に周圏論的な分布例も見られます。

柳田國男と方言

柳田國男 肖像写真

柳田國男
[写真提供:遠野市立博物館]

民俗学者・柳田國男(1875-1962)は、昭和方言学の父とも目されます。著書『後狩詞記(のちのかりことばのき)』には宮崎県椎葉村(しいばそん)における狩猟伝承の実態のほか、当地の民俗語彙も記録されています。雑誌『郷土研究』には4巻1号(大正5年4月)から方言欄が設けられ、柳田はここに本名や変名で執筆しています。方言研究における柳田の本格的活動は、昭和に入ると同時に始まりました。

柳田は『人類学雑誌』42巻第5号(昭和2年4月)に「蝸牛考」を発表。その後『民族』その他の雑誌に次々と多くの方言論文を発表しました。これが土俗学者へ与えた影響は大きく、方言採集家の大多数が土俗学者なのは柳田の影響と考えるほかはない、と橘正一は記しています。土俗学とは民族学・民俗学の旧称です。昭和5年(1930)「言語誌叢刊」の一冊として『蝸牛考』が出版されました。この書は実質的に方言学概論ともいうべき内容を兼ね備えており、方言周圏論がその中で説かれています。

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方言区画論

企画展「おらほのことば~橘正一没後80年~」展示風景

方言を広範囲にわたって調べ、その範囲(地域)が方言によってどう分割されるかを考えた時、分割されたそれらの各地域を「方言区画」といいます。そして音韻・アクセント・文法・語彙など、多くの言語事象の境界を考えながら全国の方言を分類し、地理的な区分けをする研究を「方言区画論」といいます。個々の言語事象による分類では、東西で分かれるものや、中央・周辺の関係が見られるものがあります。「方言区画論」の先駆的研究者である東條操(とうじょう みさお)は、音韻と語彙と文法を総合的に判断して全国の方言を分類し、日本の本土方言を大きく東部・西部・九州の3つに分けました。

隣接する地域間で異なる語形が分布している場合、そこに境界が存在し、その境界線のことを等語線(とうごせん)といいます。等語線は北アルプスを経る糸魚川(いといがわ)・浜名湖(はまなこ)線に集まっており、ここに方言において日本を大きく東西に分ける「東西方言境界線」が引かれます。

世界中の多くの言語で方言区画論の研究が行われていますが、現代の若年層は共通語化が進んでいるため、従来の方言区画は曖昧になってきています。

東條操

東條操は明治17年(1884)東京生まれの国語学者です。同43年(1910)東京帝国大学文科大学国文学科を卒業し、幾つもの学校・大学で教鞭を執ります。そして主に各地の方言文献を基に研究を行い、「方言区画論」を展開して、日本の方言研究の開拓や方言学の基礎確立に功績を残しました。

大正12年(1923)、計画していた「日本方言資料」の最初の一冊である『南島方言資料』の頒布が関東大震災によって阻まれ、東京帝大の国語研究室に預けてあった方言書も全て灰燼に帰しました。当時、国語調査委員会に関係していた東條は、全国の方言調査に従事していましたが、数百枚の原稿と900通の基礎資料もまた、炎に包まれました。しかしその後、東條は昭和2年(1927)『国語の方言区画』『大日本方言地図』、翌年『方言採集手帖』を発行。昭和方言学の礎石が据えられます。

東條は同15年(1940)日本方言学会を創立。同41年(1966)82歳で没しました。

金田一京助

金田一京助 肖像写真

金田一京助
[写真提供:盛岡市先人記念館]

金田一京)助(きんだいち きょうすけ)は明治15年(1882)盛岡市四ツ家町(よつやちょう 現・本町通)に生まれました。同37年(1904)東京帝国大学文科大学に入学。アイヌ語研究を志し、初めてアイヌ叙事詩ユーカラを世に紹介、アイヌ語が学問的に解明されました。金田一は昭和10年(1935)文学博士、同16年(1941)東大教授、同43年(1968)國學院大學名誉教授となります。

同10年(1935)頃からは国語学の研究にも携わり、諸辞典の編纂や教科書の編修も広く行いました。金田一は国語審議会委員として終戦後の国語改革に関わり、その論文「方言は保存すべきか」において「全国隅々まで共通語に統一されて行くことは、文化国家の理想である」とし、方言は「この貴重な資料を、是非とも、完全に調査記録して置かなければならない。そのことは、現代人の負ふ後世の学界に対する責任である」と述べています。

金田一は同29年(1954)文化勲章を受章、同46年(1971)89歳で没しました。

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音韻口語法取調

企画展「おらほのことば~橘正一没後80年~」展示風景

「音韻口語法取調(とりしらべ)」は国語調査委員会により、明治末期に実施されました。この調査は2回にわたって行われ、第一次は明治36年(1903)9月、音韻に関し29条、口語法に関し38条の調査項目で各府県の教員に依頼され、およそ翌年4月までに答申書が回収されました。調査の目的は、言文一致体の採用・口語文法と標準語選定に関する資料収集、発音矯正・国語教授の改良、口語法の異動・変遷の解明、方言区画の確定でした。この回答は同37年から40年(1904-1907)の間に、音韻・口語法の各報告書や方言地図としてまとめられました。この調査結果に基づき東西方言境界線が明示されたことは、方言学史上大きく評価されています。

第二次の取調は同41年(1908)3月、音韻に関し41条、口語法に関し90条の調査項目で実施され、各府県からの報告をもとに分布図と報告書がまとめられますが、刊行待機中に関東大震災で焼失したとされます。しかし実際には調査結果は、教育雑誌の掲載物や報告資料集、稿本や提出物の複写控えなどの形で、各地に散在していることが知られています。

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郷土教育

郷土を教材とする教育活動「郷土教育」は、明治期に地理教育の準備段階として導入されたもので、大正期には郷土研究(民俗学)の隆盛を背景に、柳田國男、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)らの「郷土会」により、その必要性が説かれました。昭和5年(1930)、文部省嘱託の小田内通敏(おだうち みちとし)らを中心に「郷土教育連盟」が結成され、その活動は文部省主導で推進する「郷土教育運動」へと組み込まれていきます。

文部省は同5・6年(1930-31)、師範教育費国庫補助金の一部を、師範学校における郷土研究施設費として交付しました。これを経費として「郷土研究」=「地方研究」の素養を身につけた教師の養成や児童の郷土理解を図り、あるべき郷土の建設を志向したのです。同6年(1931)には師範教育に「地方研究」が課せられ、また文部省主催の「郷土教育講習会」が全国各地で開催されるようになります。

昭和初期、世界大恐慌の影響で農村は疲弊していました。郷土教育運動は、郷土へ関心を向けさせることで郷土愛を高め、郷土の立て直しと国民の生産力の向上を図るものでした。

郷土教育資料

『岩手県郷土教育資料』(岩手郡本宮村) 表紙

『岩手県郷土教育資料』(岩手郡本宮村)
岩手県教育会∥編 昭和15年
[当館所蔵]

郷土教育運動のもと、各地で盛んに実施された郷土調査に基づき、提出された調査報告「郷土教育資料」が残存しています。

昭和15年(1940)は神武天皇即位紀元二千六百年にあたり、有史以来国威が最も高揚した時代で、国家を挙げて各界が各種行事を計画実行しました。

岩手県及び県教育会は県下の各小学校に対して指導的な立場をとることで、同10年(1935)から同15年にかけ皇紀(こうき)二千六百年記念事業として、郷土調査報告書類の作成を進めました。この事業のために同11年(1936)から5か年にわたり、郷土研究調査に関する講習会が開催されます。調査項目は地理・歴史・産業・生活等多岐に及びました。その中には方言も含まれており、報告書類は当時の県内の方言を知る貴重な資料となっています。これに先行する形で同11年前後の時期に、同じく県下の小学校が行った方言に関する調査報告もあり、「郷土教育資料」に関係するものと見られています。

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