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第2章2節 大正時代

大正の短歌

大正元年(1912)、小田島孤舟は浄法寺村(現・二戸市浄法寺町)で第1歌集『郊外の丘』を出版します。当時地方で個人の歌集を出版するのは珍しく、盛岡中学校の生徒であった宮沢賢治も購入し、読んでいたようです。賢治自身も、大正時代に多くの短歌を遺しています。

大正12年(1923)の年末、『岩手日報』紙上で歌を詠むことの意味を巡り激しい論争が展開されます。論陣を張ったのは、下山清(しもやま きよし)と小原節三(おばら せつぞう)という二人の歌人でした。清が『岩手日報』の紙上で「歌など一種の遊戯に過ぎぬ」と述べたことに対し、節三は「(歌は)遊戯であるかも知れない。ただあまりに涙ぐましい遊戯である」と返しています。短歌を「生活の頂点」とした節三と「爪の垢ほどの慰藉(いしゃ)」とした清の論争は結果として平行線のまま終わってしまいます。しかし、歌を詠む意味という根本的な問題について交わされた論議は、岩手の短歌史のなかだけに留まらず、文芸という営みを語る上でも印象深い出来事と言えます。

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小田島孤舟(おだしま こしゅう)

小田島孤舟 肖像写真

小田島孤舟
[写真提供:盛岡市先人記念館]

岩手県を中心に活動した歌人です。清雅な書風を持つ書家でもあり、また『岩手教育』などの編纂を手がけた教育者としても知られています。

孤舟は自らの歌作に励む一方、多くの短歌団体の結成や文芸誌の発行にあたり、岩手の短歌文芸の振興に寄与しました。明治42年(1909)に俳人・相沢暁村と発行した詩歌誌『曠野(こうや)』は、中央で活躍する文人たちからの寄稿も多く、岩手の文壇と中央文壇をつなぐ大きな架け橋となります。ほかにも岩手歌人協会の設立や、多数の短歌会の指導にあたり、明治・大正・昭和と時代を通じて短歌文芸に積極的に携わりました。その多彩な活動から「岩手歌壇の父」と称されています。

孤舟の土沢尋常高等小学校時代の同級生に、洋画家・萬鉄五郎がいます。当初画家を志していた孤舟ですが「萬の画力には及ばなく、画家の道を思いとどまった」と短歌に遺しています。二人の交流はその後も続き、歌集の表紙画の多くを萬が描いています。

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宮沢賢治

宮沢賢治といえば『春と修羅』のような詩や『注文の多い料理店』に代表される童話が有名ですが、学生時代を中心として、短歌の創作にも力を入れていました。特に大正5、6年(1916-1917)には集中して数多くの短歌を創作しており、友人の保阪嘉内(ほさか かない)とともに発行した同人雑誌『アザリア』には62首もの短歌を発表しています。

賢治の短歌は、その特異な着眼点と感性豊かな比喩表現の独自性で知られ、31文字という短さのなかにも自由で独特な世界観を作り上げました。なかには、方言を用いた会話文のみで構成されたユニークな歌や、宇宙から地球を眺める壮大なスケールで詠まれた歌もあります。「シグナル」や「どんぐり」など、その後創作する童話や詩などに通じるモチーフが登場する点も見逃せません。

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大正の俳句

大正になると、若くして亡くなった正岡子規の後を継いで『ホトトギス』の刊行を続けた高浜虚子(たかはま きょし)、その虚子から俳句を学び俳句雑誌『石楠(しゃくなげ)』を創刊した臼田亞浪(うすだ あろう)らが相次いで来県。盛岡を中心に講演・句会などが開かれました。

このような流れの中で、大正初期には盛岡で高橋青湖(たかはし せいこ)らにより、『石楠』系の俳句雑誌『自然味(しぜんみ)』が誕生しました。

一方、盛岡に生まれ24歳で渡米した下山逸蒼(しもやま いっそう)は、在米の邦字新聞数紙に俳句を発表しました。俳人としての名声が高まると、逸蒼は大正2年(1913)ロサンゼルスで俳句結社『紙燭会(しそくかい)』を結成します。会の名称は、日本人移民の心に俳句で火を灯したいという思いからでした。

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高橋青湖(たかはし せいこ)

明治22年(1889)盛岡生まれの俳人。本名は初五郎。盛岡商業学校を経て、逓信官吏(ていしんかんり)練習所(郵便や通信を取次ぐ職員の養成所)を卒業。その後、郵便局に勤めます。盛岡郵便局に勤務する中、俳句に熱心となり、局内で句会を興します。大正4年(1915)には、盛岡にて不来方吟社を結成。始めは『ホトトギス』に投句していましたが『石楠』に移ります。そして、俳句人口の拡大を図り、自らの修練の場にするため、盛岡で俳句雑誌『自然味』を創刊。他県でも広く同人や選者となり、全国的に知られることとなります。

青湖は郷里の自然をこよなく愛し、スケールの大きい感覚的な句を多く残しています。後進の指導に当たっては、風雅の誠を大切に、自然の中の美を発見するよう強調。一人一人の個性さえ出せれば、派にこだわることはないという姿勢を貫きました。

晩年は子息が暮らす兵庫県西宮市に移り、昭和55年(1980)に92歳の生涯を終えました。盛岡天満宮の境内には、青湖の句碑が建立されています。

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俳句雑誌『自然味(しぜんみ)』

『自然味 第一号』写真

『自然味 第一号』
[当館所蔵]

大正6年(1917)、高橋青湖が結成した不来方吟社の機関誌として発行されました。青湖が主宰し、『石楠』系の指導者を選者に迎えました。その後、『ホトトギス』系を圧倒する勢いを示すまでになりました。大正・昭和の県内の俳人たちに大きな影響を与え、多くの優れた俳人を中央に送り出しました。

太平洋戦争が激化すると、『自然味』も休刊を余儀なくされます。しかし、終戦後の昭和20年(1945)には早くも復刊を遂げました。

当時の県内では『ホトトギス』系の俳人が多数を占めていた中で、青湖は派を超えて俳諧の発展に尽くしたといわれています。そうした姿勢から多くの後輩に慕われ、『自然味』は長きにわたり刊行を続けます。昭和56年(1981)12月、通巻第641号をもって終刊となりました。

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下山逸蒼(しもやま いっそう)

下山逸蒼 肖像写真

下山逸蒼
[写真提供:盛岡市先人記念館]

明治12年(1879)盛岡生まれの俳人。本名は英太郎。実弟によると、「逸蒼」とは、「蒼海を逸する」つまり、太平洋を渡って戻らないという意味であったとのことです。

逸蒼は幼くして父と死別し、岩手県庁の給仕をしながら資格を取り、県の土木技手になります。そのかたわら、旧派から俳句を学びました。

明治36年(1903)に、立身出世のためサンフランシスコに渡ります。言葉は通じず、技手の経験も役に立たず、荒れた生活の中で好きな句作だけが逸蒼の心を癒します。逸蒼は、日本と異なるアメリカの風物を捉えるためには、俳句の五七五の定型を壊さなければと考えました。そして、正岡子規らの流れを飛び超えて、定型や季語に捉われない自由律俳句を創作しました。後半生は病気、障がいと闘い、俳句の創作とその指導に明け暮れました。

昭和10年(1935)65歳で生涯を終え、サンフランシスコの日本人移民の共同墓地に眠っています。

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