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第2章1節 明治時代

明治の短歌

明治33年(1900)、当時盛岡中学校の生徒であった金田一京助の短歌が、与謝野鉄幹が主宰する文芸誌『明星』に掲載されます。京助は号を花明と称して、学生時代から短歌を投稿していました。

京助の盛岡中学校の後輩には石川啄木がいました。啄木は校内で短歌グループ・白羊会(はくようかい)を結成するなど文学活動に勤しみますが、文学で身を立てるために中退し、上京します。明治30年代は特に、高野桃村(たかの とうそん)らによる幽薫会(ゆうくんかい)(36年)、細越夜雨(ほそごえ やう)らによる闇潮会(あんちょうかい)(37年)など学生らによる短歌グループの結成が活況となった時代でした。

明治42年(1909)、二戸郡浄法寺村(現・二戸市浄法寺町)で教師をしていた小田島孤舟(おだしま こしゅう)は、村医として着任した俳人・相沢暁村(あいざわ ぎょうそん)と提携して曠野社(こうやしゃ)を結成します。発行文芸誌の『曠野』は中央の歌人らも作品を寄せ、地方文壇と中央文壇をつなぐ重要な役割を果たします。

明治43年(1910)には、啄木の第一歌集『一握の砂』が発行されます。生活を率直に見つめる姿勢に豊かな情緒が結びついた作風と、3行書きという独特な形式の短歌は人々の話題となりました。更なる活躍が期待された啄木でしたが、2年後の明治45年(1912)に病死します。同年、友人らの手によって第二歌集『悲しき玩具』が発行されました。

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白羊会(はくようかい)

明治34年(1901)、当時の盛岡中学校に在籍していた生徒たちで白羊会という短歌グループが結成されました。中心人物は当時4年生だった石川啄木です。

メンバーには『岩手毎日新聞』の主筆・岡山不衣(おかやま ふい)や、時代小説『銭形平次』の作者・野村胡堂、医学博士・小林茂雄など、のちに各分野で名をのこした人物たちが在籍していました。会には文芸を愛する生徒たちが上級生・下級生の垣根なく集い、日々切磋琢磨していました。

白羊会は『岩手日報』紙上に「白羊会詠草」として7回にわたって短歌が掲載されたほか『盛岡中学校校友会雑誌』にも作品を寄稿するなど、積極的に活動していたようです。しかし、中心となって活動していた啄木の退学などを経て、活動は自然に衰微していきました。

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石川啄木

石川啄木 肖像写真

石川啄木
[写真提供:石川啄木記念館]

明治19年(1886)、岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸)で生まれた石川啄木は、盛岡中学校在学中、上級生であった金田一京助や野村胡堂から文芸雑誌『明星』を紹介されたことをきっかけに文学の世界に没頭していきます。明治35年(1902)に文学で身を立てるべく学校を退学すると、住まいや仕事を転々としながら、東京や北海道など各地を渡り歩きます。生活に苦しみながらも文学の道を歩み続ける激動の人生を送りますが、明治45年(1912)、26歳の若さで病死します。

啄木は伝統的な短歌の表現・内容に対する革新として、表記や内容の自由を主張しました。3行書きという独特な形式での歌作や、生活の実感を重んじる作風にその実践が表れています。日々の生活を素直に表現しながらも単に写実に徹するのではなく、抒情的な魅力をも含んだ啄木の短歌は、今なお多くの人々の共感を呼んでいます。

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明治の俳句

明治に入り、人々の生活様式が変わると、俳人たちの間にもその影響が表れてきます。

明治20年代になると正岡子規によって、旧来の俳句から着想を得ようとする旧派から抜け出し、多様で新たな視点を取り入れた俳句を生み出そうとする革新運動が起こります。その中で子規は、絵画の「写生」の手法を取り入れ、視覚的な表現で俳句を詠む現在の俳句のスタイルを確立しました。

明治30年(1897)には、子規らが中心となり俳句雑誌『ホトトギス』を刊行。その影響は全国へと広がり、県内の俳人たちも旧派から脱していくこととなります。

盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)から東京の学校に転校し正岡子規に師事していた原抱琴(はら ほうきん)は、帰省の度に働きかけ、明治32年(1899)に盛岡中学校の在校生らによる杜陵吟社(とりょうぎんしゃ)という俳句グループを結成します。杜陵吟社は、秋田県下を俳句行脚し、高松の池に船を浮かべて宴を催すなど活発に活動しました。やがて、杜陵吟社は紫苑会(しおんかい)として引き継がれ、原抱琴を顧問・選者にして俳句雑誌『紫苑』を発行しました。

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原抱琴(はら ほうきん)

原抱琴 肖像写真

原抱琴
[写真提供:盛岡市先人記念館]

明治16年(1883)盛岡生まれの俳人です。本名は、原達(はら とおる)。平民宰相・原敬の甥にあたります。子供のいない原敬は、抱琴の将来に大きな期待を抱いていたといわれています。盛岡中学校から東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に転校。中学時代から『ホトトギス』に投稿し、正岡子規に才能を認められ師事します。その後、第一高等学校(現・東京大学教養学部)に入学しますが病気により中退。新たに東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学して首席で卒業します。そして東京帝国大学(現・東京大学)へと進みます。常に成績優秀、文才に恵まれ、人柄も良く多くの人に好かれましたが、身体が弱く、明治45年(1912)の卒業直前、原敬、正岡子規らにその才能を惜しまれつつ30歳の若さで病没しました。

金田一京助、野村胡堂らの先輩として、盛岡中学校に文学の胚種を植え付けたとも評されています。

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俳句雑誌『紫苑』(しおん)

紫苑 第二号 写真

『紫苑 第二号』
[当館所蔵]

原抱琴を中心に結成された俳句グループ杜陵吟社は、やがて社会人となった俳人たちによって、紫苑会となります。

紫苑会は、明治36~37年(1903~1904)に、盛岡で俳句雑誌『紫苑』を刊行します。『紫苑』は正岡子規の流れを組む『ホトトギス』系の俳句雑誌でした。第4号には夏目漱石の『俳句と外国文学』が掲載されるなど、全国屈指の俳句雑誌といわれています。

しかし、主力となった俳人たちの上京・卒業が相次ぎ、6号で終刊となりました。

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