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海とともに

異世界への扉

外国船来航

内史略(阿蘭陀船、山田浦にあらわる)

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5-1)

内史略 前2 山田浦に阿蘭陀人漂着す

「内史略 前2」山田浦に阿蘭陀人漂着す

当資料によると、寛永20年(1643)6月14日に山田湾浦に漂着した阿蘭陀人10名を捕らえ、盛岡を経て江戸へ送った。その際、功績のあった盛岡藩士2名に幕府から褒美が出された。

その後、正保元年(1645)と元禄12年(1699)に作成された「国絵図」の山田湾部分にこの阿蘭陀船が描かれている。50年後に作成された絵図に描かれるほど、この出来事は当時の人々に強力なインパクトを与えた。

海防

大大守様御心附海防向之儀公辺へ被仰上候御書面写

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新39-16)

嘉永6年(1853)6月に浦賀沖にペリーが来航したことにより、幕府は大名から庶民にいたるまで、広く外交についての意見を求めた。その際に、13代盛岡藩主南部利済が幕府に進上した海防に関する意見書の写しである。

当時利済は、家督を15代利剛に譲っていたが、依然として「大大守」として実権を握っていた。海防などに努めた人物ではあったが、百姓一揆が頻発するなど、領内から藩政に対してあまり支持が得られなかった。

七浦海岸御人数積

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新39-15)

表紙の題せんには「七浦海岸御人数積」と記されているが、「蝦夷地警衛御領分海岸防禦平常備組覚」、「七浦海岸浜方並村々磯辺御書上写」など海岸警衛に関する記録が集めてあり、役務に当たる藩士の心得として書き写されたものと考えられる。七浦とは、盛岡藩領内の沿岸七通(田名部・野辺地・五戸・七戸・野田・宮古・大槌)のことを言い、寛政4年(1792)のラクスマン来航によって、蝦夷地の防備とともに海防強化を迫られていた。

三閉伊日記

岩手県立博物館所蔵

嘉永7年(1854)に、盛岡藩士の長沢文作と大矢文治が公用で領内を旅した際の日記。

盛岡から野田へ向かい、そこから釜石まで海岸沿いに南下し、遠野を通って1ヶ月半後、大迫に到着している。前年の三閉伊一揆の発端となった大披鉄山、野田通の情勢を見るのが重要な役目であったとの指摘もされている。展示部分は、「宮古下町ヨリ見渡シ処の図」である。この図のみ彩色が施されている。

三閉伊通御巡見御行列帳
三閉伊通御巡見御通行御道筋里数並御昼泊附

岩手県立図書館所蔵(請求記号:21.5-68)

盛岡藩主南部利剛が三閉伊通海岸御備向ならびに御台場設置のため巡見した際の行程、行列順を記録したもの。巡視直前の安政3年(1856)7月に大地震が発生し、村々が困窮しているため巡視は一旦延期されたが、御台場のほか大橋鉄鉱山の見分や尾崎神社への参詣も行われている。約60名の御供を連れ立ち、各地の有力者の家に休憩や宿泊しながら24日間の行程で行われた。