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海とともに

プロローグ

絵図

三閉伊通海岸整正分間絵図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:江213)

三閉伊とは盛岡藩領の東海岸の野田・宮古・大槌通(現在の久慈市から釜石市にかけて)をいい、その海岸を正確に測量した(整正分間)絵図。

表紙の左肩に貼り付けられた朱紙には「七枚ノ内」とあり七枚一組のものである。壱寸(約3cm)で百間(約182m)の縮尺で描かれている。陣屋・代官所また遠見番所・大砲場などが書き込まれており、海防強化を迫られた江戸末期に作成されたものと思われる。

大槌通絵図面

岩手県立図書館所蔵(請求記号:江888)

大槌通絵図面

「大槌通絵図面」

文久4年(1864)3月に山田町の佐々木藍田(らんでん)が大槌通代官所の依頼を受けて作成した絵図。

海岸沿いにある小さな朱色の丸印は台場を示している。異国船が頻繁に出没するようになった幕末には、太平洋海岸に砲台が築かれ、警備兵が配されるとともに、台場には土塁が巡らされ、大砲が据えられた。同年4月の藩主の三閉伊通海岸警衛の巡見に合わせて作成されたことも考えられる。

山田浦海岸之図

岩手県立博物館所蔵

大槌町佐々木家に伝わる絵図で、佐々木藍田が安政4年(1857)に作成したと見られる。書き込みなどが見られ、何らかの絵図の下絵と思われる。藍田は、山田で「荒川屋」という屋号で染物屋を営んでいたが、嘉永7年(1854)には、金山の産金で賑わっていた大槌村金沢に移り住んだ。独学で学んだ絵画が周囲の人々の評判を呼び、絵師としても活動するようになった。

街道

閉伊街道図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:39-128)

閉伊街道図

「閉伊街道図」

盛岡と領内東海岸の主要湊の一つである宮古を結ぶ街道の普請図。

難所続きの道筋で、2泊3日の行程で往来されていた。幾筋かのルートが存在し、開発と改修の土木工事が何度も行われた。牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)和尚の開発改修は有名。海陸間の物資交流のために重要な道で、海岸部からは魚類・海草・塩などいわゆる五十集(いさば)が送られ、内陸部からは米・雑穀が運ばれた。交通量が増えるにつれ、伝馬役は沿道村々にとって大きな重荷となった。