ページの位置

  1. ホーム
  2. 海とともに
  3. 描かれた風景・詠まれた風景

海とともに

描かれた風景・詠まれた風景

描かれた風景

日本名山図会

岩手県立図書館所蔵(請求記号:09-7)

盛岡出身で江戸の医師・川村寿庵が絵師・谷文晁に依頼して発行した『名山図譜』を文化9年(1812)に改題したもの。

作者の谷文晁は会津藩主・松平定信の側近を務めた絵師でもある。富士山など日本の名峰に混じり、岩手山、七時雨山、南昌山などが紹介されている。早池峰山の図は宮古市築地から見て描いたとみられ、画面手前に緩やかに流れ出る閉伊川と静かに帆船が浮かぶ宮古浦が描かれている。

府県名所図会 岩手県陸中宮古浦景

岩手県立博物館所蔵

明治13年(1886)、三代歌川広重の作品。『日本名山図会』の図様を巧みに取り入れ、横長の画面を縦長にしている。江戸中期から各国の名所を豊富な図で解説した「名所図会」が流行し、明治に入ってもなお人気を博していた。宮古浦の風光は、人々の旅心をくすぐる名所の一つであったのだろう。理由は不明だが、早池峰山は「名久井嶽(青森県)」とされている。

張込帳 日本地誌略図会

岩手県立図書館所蔵(請求記号:04-9-2)

明治9年(1876)頃、三代歌川広重により作成された『日本地誌略図会』の「宮古浦景」。

説明書きには「宮古 釜石の二港最泊舟に便なり」とある。三代歌川広重は、初代歌川広重の門人。初代広重、二代広重とも、『日本名山図会』を下敷きにした名所絵の作例が知られており、本作もその系統を引くものと見ることができると指摘されている。『府県名所図会』と同様に早池峰山は名久井嶽(青森県)となっている。

詠まれた風景

名処順道記

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22-86)

名処順道記 奥乃海

「名処順道記」奥乃海

盛岡藩士の清水秋全が、藩主南部利視の命を受けて宝暦元年(1751)に著したもの。

盛岡藩領内の和歌に詠まれた名所や歌枕になった地を絵図入りで紹介している。残念ながら、野田玉川、十府の部分には、図が描かれてはいない。野田玉川には、西行が訪ねて来たという言い伝えがあり、玉川河口北岸に西行屋敷の旧跡もある。また、十府は「十府の菅菰」や「十府ヶ浦」として詠み込まれるが、江戸時代には野田村の名産として菅菰(スゲで編んだ莚)があった。

みやこしま

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新91.3-16)

みやこしま

「みやこしま」

盛岡の商人小野素郷により編纂された俳句集。

素郷は、宮古の俳人里川に誘われて宮古鍬ヶ崎を訪れた際に、芭蕉の句を思い浮かべ、碑に刻んだ。この碑は鴨塚と呼ばれ、画面中央に描かれている。碑が建つ大杉神社は、網場様と称され、海の神・漁業の神として漁業・五十集を扱う人々から厚い尊崇を受けた。

書名の「みやこしま」は歌枕で、場所は特定されていないが、宮古市はその候補地の一つとなっている。風光明媚な宮古鍬ヶ崎は旅人の歌心を掻き立てたに違いない。

三陸俳人像零本

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新91.3-77)

三陸俳人像零本

「三陸俳人像零本」

表紙など本の大半が失われているため詳細は不明である。盛岡、八戸、宮古、大槌など盛岡藩領内の俳人を人物画と俳句で紹介している。展示部分は、「宮古鍬ヶ崎橋本屋内」の「登美佐」の俳句である。

江戸時代の宮古鍬ヶ崎浦は、寄港地として隆盛をきわめ、花街としても知られていた。江戸の芸人・豊後大掾藤原衆秀が文政12年(1829)に奥羽越後を旅した際に記した日記『筆まかせ』に、鍬ヶ崎に逗留し浄瑠璃の稽古をつけた「橋本」屋の遊女の名もみえる。

大梅居家集 2巻

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新91.3-48)

江戸の俳人児島大梅の7回忌にあたって編纂された俳句集。

大梅が弟子の卓朗とともに門下の貫洞卓堂(大槌在住)を訪ねた際、和山峠の芳形で詠んだ俳句が収録されている。芳形は大槌街道中で一番の難所であったため、茶屋があり旅人は必ずここで足を止めたといわれている。この付近に大梅の句碑も建立されている。『三閉伊日記』にも、この句碑についての記述がみられる。

花車集

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新91.3-38)

菊池五大が編纂した俳句集。

序文を江戸の豪商で俳人の守村抱儀が、跋文を児島大梅が記している。菊池五大は大槌町出身で、諸国を旅して歩き、児島大梅に師事し俳諧を学んだ。文久の頃帰郷して天神社内に東梅舎という庵を結び、領内外の文人らと交流を深めた。そのほか、安政3年(1856)の地震津波や一揆のことを記した『梅荘見聞録』も著している。