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街道をたどる ~街道と宿場~

道の歴史は人類の歴史とともに歩んできた。江戸時代には幕府によって、江戸を起点とする五街道(東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中)が整備され、交通網の基盤が形成された。この背景には、寛永12年(1635)に制度化された大名の参勤交代制があり、街道には宿泊や人馬輸送を担う宿場が配置され、里程の目印となる一里塚や陽射し避けの松並木が整備された。

江戸から奥州へ向かう奥州道中は、奥州街道とも呼ばれ、千住(せんじゅ 東京都足立区)から白河(福島県白河市)までを指す(宇都宮までは日光道中と共用)。白河以北はその延長部とされ、勘定奉行の管轄下にあって各藩が支配に当った。白河から仙台藩領、盛岡藩領を経て津軽藩領の三厩(みんまや 青森県)に至る道筋は、現在の国道4号線に重なる。盛岡藩内では「大道筋(おおみちすじ)」とも呼ばれ、これを軸に、鹿角・秋田・宮古・遠野などへ向かう脇街道が分岐していた。仙台藩内では、大船渡・陸前高田などへ向かう脇街道も整備された。このほか「海辺道(うみべみち)」と呼ばれる太平洋沿岸の道などもあった。

今も所々にかつての街道の名残や痕跡が見られ、街道沿いに残る歴史の足跡から、先人の生きることへの真摯な祈りや、暮らしの知恵を偲ぶことが出来る。

街道をたどる

盛岡藩領内図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新/22.3/7)

「盛岡藩領内図」岩鷲山の部分

「盛岡藩領内図」岩鷲山の部分

盛岡藩の所領全体を描いた領内図。郡村名に村間の里数、街道に一里塚、湊や河川や諸山など地理情報が豊富に書き込まれている。岩鷲山の部分には、「貞享三年春三月初ヨリ山焼煙見超テ年不消」と記され、噴煙が描かれている。元禄期(1688-1703)に作成された国絵図を縮小し、簡素にした絵図と考えられる。幕府は各大名に調進を命じた国絵図によって全国の交通路掌握を図った。

仙台藩領郡分之図

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22.3/11)

「仙台藩領郡分之図」部分

「仙台藩領郡分之図」部分

仙台藩領を郡ごとに色分けして描かれた絵図。道は朱色で記され、太い墨線で郡境が示されている。水沢から盛(大船渡市盛町)へ至る盛街道は、一般的には水沢から奥州街道を北上し、岩谷堂を経由して盛町に至るルートだが、当資料では、北上相去町から下門岡、岩谷堂を通る道筋が記されている。同様に、一関町を起点に、相川、長坂、大原を経由し、矢作から今泉宿に至る今泉街道は、水沢から、北上、岩谷堂、黒石、長坂に至るルートが記されている。また一関町から須川を越えて秋田藩領院内へ向かう院内街道、水沢町から増田町へ出る山越えの仙北街道が見える。

御国中駅場厘数并夫駄賃

岩手県立図書館所蔵(請求記号:新68/2)

盛岡藩領内の各宿駅間の距離と夫駄賃を記した一覧。夫駄賃は客や荷物を運ぶのに対して支払われる運賃のことをいう。元和2年(1616)に江戸幕府が伝馬・荷物駄賃の制を定めたことに始まるといわれる。当資料によると、盛岡城下から郡山二日町(紫波町二日町)まで、本馬(ほんま、荷物を約40貫目=約150kg運ぶ)177文、軽尻(からじり、本馬の半分の積荷量を運ぶ)119文、夫(人足)86文であった。

奥州盛岡城並領内道規御書上写

岩手県立図書館所蔵(請求記号:22/23)

「奥州盛岡城並領内道規御書上写」大道筋

「奥州盛岡城並領内道規御書上写」大道筋

奥州盛岡城間数ならびに領内の道程を幕府に報告した記録の写。正保国絵図(1644-1648)、城絵図の提出が求められた時に作成した文書を写したものを、寛保3年(1743)、明和9年(1772)に写したものが伝えられている。奥州街道など大道筋や海辺道のほかにも、「入海海辺道」や舟路の「道矩並湊口ノ間数」も記されている。

北奥路程記

もりおか歴史文化館所蔵
岩手県立図書館所蔵(請求記号:22/50)

「北奥路程記 上」(岩手県立図書館本)

「北奥路程記」(岩手県立図書館所蔵本)

盛岡藩士の漆戸茂樹が記した紀行文。上段には街道周辺の景観と名所旧跡を描き、下段には名所旧跡の由緒や地理などを記している。凡例の後に「御巡見御用としてかしこみながら、空考を図記して備高覧」と記されてある。安政3年(1856)4月の藩主南部利剛(としひさ)の奥通(盛岡城下以北)巡見の随行に際し、領内の地理や名所旧跡に詳しい漆戸が藩主からの問合せに備え記したものであろうか。もりおか歴史文化館所蔵資料は、文章中の所々に名所旧跡や町場の図が添えられており、当館所蔵のものとは形態が異なっている。

奥片岡風土記

もりおか歴史文化館所蔵

片岡村(奥州市江刺区岩谷堂)の名所旧跡の沿革などを解説したもの。蔵が立ち並び繁盛している岩谷堂の町並みや馬市の様子が色鮮やかに描かれている。江戸時代に流行した名所図会のように町の様子の描写に加え和歌や俳句などを添えている。片岡村周辺の国見山盛岡藩境、下河原渡場についても記している。

山水真写譜[パネル]

岩手県立博物館所蔵・画像提供

盛岡藩の絵師川口月嶺(かわぐちげつれい 1811-1871)が、盛岡藩領内の風景を描いた写生集。動物や植物、山や川、街道の風景など実際に自分の眼で見て描いたスケッチなどが多く残されている。月嶺の出身地が鹿角郡花輪村であるためか、鹿角街道沿いから見える風景が数多くみられる。

三閉伊道中図・北奥道中図

もりおか歴史文化館所蔵

三閉伊(三陸海岸地域)や北奥(盛岡城下以北)の里程や名所などを記した「三閉伊路程記」や「北奥路程記」と対になる絵図として描かれたと考えられる。村名や山名、字名、寺社名などが黄色の四角に書き込まれ、朱色で描かれた街道を中心に周辺の風景や地理が連続して描かれている。江戸時代末期の盛岡藩領内の街道沿いの風景や名所・寺社仏閣など描いた貴重な資料といわれている。

南部領海陸分間図縮図

もりおか歴史文化館所蔵

安政4年(1857)8月盛岡藩士長沢文作、大江浅之助によって作成された絵図。盛岡から岩泉、野田を通り、野田から釜石まで海岸沿いに南下し、釜石から、遠野、大迫などを通過して盛岡へ戻る街道と海岸線が描かれている。全行程を一枚の絵図に記した縮図と行程の各部分を百間壱寸積(約6千分の1)の縮尺で記した22鋪の部分図のセットである。部分図は「三閉伊道中図」と同じ行程が描かれ、また町場や山の描き方なども類似している。

増補行程記

もりおか歴史文化館所蔵

盛岡藩士清水秋全が寛延4年(1751)に、盛岡藩主南部利視(としみ)の命をうけて江戸から盛岡までの奥州街道を色鮮やかに描いたもの。街道を写実的に描写するとともに、街道から視界に入る風景も描かれている。また、各地の名所・名物や伝説・古歌なども記されている。「名処順道記」序によると藩主の命を受け、「武奥増補行程記」、「増補行程記」、「名処順道記」を記し献上したとされる。

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