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川に泣く

多くの恵みをもたらす母なる川は、時に自然の圧倒的な脅威をみせつけることがある。洪水などの被害に悩まされた人々は、川の流路の変更や堤防の築造など、川と生きるための努力を行ってきた。盛岡城下や花巻城下付近での、北上川の河道変更工事はその最たるものである。しかし治水の努力を尽くしてもなお、「水げんか」と呼ばれる死傷者を出すほどの引水闘争がおこることもあった。

内史略(前十一・后三・后五より)

請求記号:21.5/1

「内史略 前十一」寛文2年 盛岡城下の洪水

「内史略 前十一」寛文2年 盛岡城下の洪水

「内史略 后三」寛文11年 盛岡城下の洪水

「内史略 后三」寛文11年 盛岡城下の洪水

「内史略 后五」享和元年 盛岡城下の洪水

「内史略 后五」享和元年 盛岡城下の洪水

盛岡藩士の家に生まれた横川良助(1774-1857)が記した盛岡藩の記録。前編は『奥南旧指録』『盛岡砂子』『登曽草紙』などからの収録で、後編は藩の財政事情、百姓一揆、凶作など、後世に伝えるべき社会問題を取り上げている。さまざまな資料を収集し、史実を明細に、しかも客観的に記している。

寛文2年(1662)、寛文11年(1671)と続けて盛岡城下で起きた大洪水について、「是を世に白髭水という」と記されている。また、享和元年(1801)6月20日の盛岡城下の洪水については、城下に濁流が侵入する様子などが詳細に記され、「老人の云、往昔の白髭水に増れり」とし、一昼夜の大雨による「大水(洪水)」を「奇事」と評している。

古咄伝記

請求記号:新/38/1

「古咄伝記」

「古咄伝記」

「吾妻昔物語」の異本の一つ。表書に「古咄伝記 一名東奥古伝記」と、末尾に「元禄十一戊寅年(1698)九月日書之 藤根吉品」と記される。「十二白髭洪水の事」では、宝治元年(1247)の大洪水の時、白髭の翁が屋根の上に立ち流れていった伝説が紹介されている。その後、大洪水のことを「白髭水」と呼ぶようになった。

閉伊街道図

請求記号:22.3/64、39/128

「閉伊街道図」(22.3/64)部分

「閉伊街道図」(22.3/64) 部分

「閉伊街道図」(39/128) 部分

「閉伊街道図」(39/128) 部分

城下盛岡と盛岡藩の主要湊の一つ宮古湊を結ぶ街道の普請図。当館には、閉伊川河口の宮古湊から始まり川目村(現盛岡市川目)までの図と、城下鉈屋町から始まり古田村(現宮古市川井)までの図の2巻がある。書込みなどから、天保年間(1830-1843)以降に行われた改修の際の街道変更図面と見られている。

宮古市区界峠を水源とした閉伊川は早池峰山などの深山を抱え、流域の村々では良質の木材を産出する林業が盛んで、伐出しに閉伊川の流れが利用された。また、中・下流では鮭鱒漁が中世から行われており、閉伊川流域の瀬主(小漁場を請負った漁場主)が藩主に役料として鮭を上納している。

盛岡城下図(伝寛永図)

請求記号:22.3/58

「盛岡城下図」

「盛岡城下図」

「寛永図」と称される盛岡城下絵図の写本。北上川は、現在の河道と違い、夕顔瀬の南で蛇行し、城の西側直下を流れているのが分かる。昭和6年(1931)に旧河道や堀を埋めて大通りや東大通り商店街などがつくられた。現・サンビル前交差点付近は船着き場跡といわれ、南部利直がここから船に乗り「大坂夏の陣」に出陣したと伝えられる。

戸川通往還難所工事諸留

請求記号:新/51/2

「戸川通往還難所工事諸留」

「戸川通往還難所工事諸留」

(戸川通往還筋蟇目村より川内村迄七ケ村之内難所之道此度普請仕候場所見分書出之覚)

宝暦8年(1758)、牧庵鞭牛(ぼくあんべんぎゅう)和尚の道普請の人足、難所十ヶ所について図入りで記述した覚書の控。元和元(1615)年に宮古湊が開かれ、それに伴い盛岡城下と「戸川=閉川(へがわ)」とも呼ばれた閉伊川河口を結ぶルートとして整備が始まったと考えられる。難所が非常に多く、幾度となく開発と改修の土木工事が何度も行われ、幾筋かのルートが存在した。

森岡御領八戸御領水掛覚帳

請求記号:21.5/121/109

紫波郡平沢村(現紫波町)の肝入(村役人)などを務めた家に伝わった資料。寛文12年(1672)、盛岡・八戸両藩では、役人を派遣して境塚を築造し、両藩共用の滝名川用水に関する協定書を取りかわした。当資料は、協定書の文化2年(1805)の写し。寛文12年以後、滝名川用水の基本原則として、山王海ダムが建設される昭和27年(1952)まで順守された。

稲荷前高水寺堰並野沢堰御普請中諸入方割合覚帳

請求記号:21.5/121/111

『内史略』にも記された享和元年(1801)6月の大洪水によって損壊した高水寺堰と野沢堰(紫波町)の工事費用に関する資料。堰の維持管理は各村の協議で行われ、堰の修理・経費は石高に応じて各村で負担した。滝名川は、志和稲荷神社前で、本流滝名川と高水寺堰に大きく分かれ、この分水点は「稲荷大口前」と呼ばれた。

中津川治水碑拓本

請求記号:21.9/13/20

大正元年(1912)11月9日に中津川の治水工事完了の記念として建立された石碑の拓本。明治43年(1910)9月2日大洪水が発生し、中津川三橋のほか与の字橋、毘沙門橋、北上川の明治橋なども流失し、市内各地で交通が寸断される非常事態となった。翌年、護岸工事が開始され、現在でも中の橋下流北側に古い石積護岸跡が残されている。

金銅擬宝珠拓本集

請求記号:21.9/20/14

第2代盛岡藩南部利直は、盛岡城下建設の一歩として中津川に、上の橋(慶長14年(1609))、中の橋(慶長16年(1611))、下の橋(慶長17年(1612))の三橋を架け、上の橋と中の橋には利直在銘の擬宝珠(ぎぼし)が設置された。三橋は、洪水のために落橋・流失を繰り返した。明治43年(1910)の大水害後の架け替えの際には、中の橋の擬宝珠は下の橋に移された。

流光帖(存信戯画)

請求記号:72/22

明治38年(1905)9月に岩手県で初めて電燈が灯された。その開業を祝して制作された書画帳と考えられる。電気を供給した旧宇津野発電所(盛岡市指定有形文化財)は当時としては最新で、盛岡で唯一の発電所だった。発電のもととなる水は北上川支流の簗川から取水した。画家狩野存信は、初めて電燈に接した当時の人々をユーモアたっぷりに表現している。

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