• いわての川とその遺産
  • 川の恵みと暮らし
  • 川に泣く
  • 川を想う 川を詠む

現在位置: トップページ > 川の恵みと暮らし

川の恵みと暮らし

川はさまざまな生き物を育み、鮭や鱒、岩魚や鮎など川魚の恵みをもたらしてきた。江戸時代、北上川で獲れた鮭・鱒は、幕府に献上され珍重された。また川は田畑を潤して農産物の恵みをもたらし、さらなる恵みを求めた人々は用水工事・新田開発を推し進めた。近代に入ってからは、水流を利用しての水力発電なども行われるようになった。

川はまた古くから重要な交通手段でもあり、船による物資の輸送“舟運”は江戸時代における物流の要であった。特にも北上川は、蔵米をはじめとするさまざまな品を江戸へ輸送するために不可欠なルートであった。

北上川ひらた之航路図

請求記号:新/68/3

「北上川ひらた之航路図」部分

「北上川ひらた之航路図」部分

黒沢尻河岸から石巻湊にいたる北上川の航路を記した絵図。航路を朱の線、難所を渦巻きや岩で表し、難所の程度を、地名+「大難所」、地名+「難所」、地名の3段階に書き分けている。里数なども書き込まれている。北上市立博物館やもりおか歴史文化館にも別本がある。以前は、和綴じ本であったが、現在は保存のため巻子本になっている。

黒沢尻御ひらた所御定目

請求記号:新/32/56

「黒沢尻御ひらた所御定目」ひらた舟

「黒沢尻御ひらた所御定目」ひらた舟

北上川を行き来した船は、ひらた船(350俵積、長さ約16m、幅約3.4m)とそれより小さな小繰船(おぐりぶね)の2種類あり、底が平らで浅い船型は、川底が浅い川の往来に適していた。当資料は、明和5年(1768)に大川又右衛門が、ひらた船運行の諸規則とそれに関係する記録を編集し、さらに長沢覚右衛門が追記したものである。

石巻御用御定目

請求記号:新/32/55

「石巻御用御定目」

「石巻御用御定目」

北上川を往航する船や運ばれた積荷などの輸送業務を取り扱っていた石巻の役所の規定書である。運賃、積み替えの際の諸費用、石巻湊に詰めていた仙台藩役人への手当などが記されている。寛永3年(1626)に仙台藩が行った北上川河口周辺の開削工事(石巻湊)により、仙台藩より航行許可を得て北上川を利用し、江戸へ年貢米などを運ぶようになった。

見聞随筆 巻之四

請求記号:新/09/65

「見聞随筆 巻之四」新山船橋定規

「見聞随筆 巻之四」新山船橋定規

横川良助(1774-1857)が、自ら収集した資料をもとに編纂した歴史書。日本国内でおきた出来事に主眼をおいて記述され、横川自身の知見も所々に見受けられる。この中の「新山船橋定規」には、並べる船の数、敷板の大きさ、洪水の際の対応の仕方、舟橋の維持管理にあたった水主らの名簿なども記され、船橋に関わるすべてのことが規定されている。

黒沢尻河岸北上川漁場図

請求記号:新/22.3/15/1

(「加賀野外山之図ほか」より)

黒沢尻村里分と下鬼柳村に接する北上川で盛んに行われた鮭鱒漁などの漁場を記した絵図。絵図左側の「横留」(立花留か)は簗漁(やなりょう/川幅全体に簀をたて遡上する魚を留め、待網で捕獲する仕掛け)の漁場、「大網漁場」は北上川最大の網漁が行われた漁場と思われる。「和工」「輪工」と呼ばれる、木枠に石を詰めて造る堤防の水除け施設も見られる。

南本内御山並南本内川筋絵図

請求記号:新/22.3/15/6

「南本内御山並南本内川筋絵図」部分

「南本内御山並南本内川筋絵図」部分

(「加賀野外山之図ほか」より)

西和賀町の南本内岳(1492m)は、秋田領と仙台領と盛岡領の藩境の三界山に連なる山で、そこに源を発した南本内川は和賀川(現錦秋湖)に流れ込む川である。当資料は、「此度南本内御山ニテ御剪出」の際に作成された「御山之図並川筋大図」で、桧や松などの樹種や本数が書き込まれている。剪出した木は南本内川に流して集積場へ運んだと思われる。

岩手県漁業史料

請求記号:K/660.2/イ1/1

明治8~10年(1875~77)までの岩手県庁所蔵の漁業関係廻議綴を抜粋し活字化した資料。明治8年の「川漁諸税取据之議」によると、大引網漁は、黒沢尻・若柳周辺で「大網」と呼ばれ、50~100間(約9~18m)の網を引いて鮭を漁するものと記されている。「大網」などの江戸時代の漁法は、昭和初期まで引き継がれ行われていた。

南部藩家老席日誌 雑書 寛文13年7月24日条

マイクロフィルム複製

盛岡藩では、幕府に黒沢尻河岸で獲れた一番鮭を初鮭として献上していた。盛岡藩家老の執務日誌である「雑書」によると、寛文13年(1673)7月24日、「立花留」で獲れた「初鮭壱尺かの(1尺のおすの鮭)」を江戸へ早馬で送っている。漁師らへ、褒美として米2駄(米1駄=2俵)が与えられている。翌日には、「立花留」で二番鮭、「小本川」で三番鮭が獲れている。

北奥路程記

請求記号:22/50

「北奥路程記」門前寺村付近

「北奥路程記」門前寺村付近

盛岡藩士の漆戸茂樹が記した紀行記。上段には奥通(盛岡城下以北)の街道周辺の景観と名所旧跡を描き、下段には名所旧跡の由緒や縁起を記している。門前寺村付近には、「御国第一の簗にて大漁ある所なり」と記されている。厨川の蛇の島(盛岡市上堂)から門前寺(盛岡市玉山区)にかけての簗は、盛岡藩直轄の「御用簗」であった。

ページの一番上へ