世界の平泉へ

明治〜昭和初期

明治維新後、平泉保存整備の契機となったのは、明治天皇の全国巡幸でした。明治9年(1876)に50日間の東北巡幸が行われ、7月に平泉を訪れた明治天皇は「国家の規模たる古蹟なれば厚く保護せよ」という言葉を残し、それをきっかけに保存事業が行われることになるのです。

同30年(1897)には古社寺保存法制定とともに、中尊寺金色堂が特別保護建造物(旧国宝)に指定され、国費による修理が始まりました。なおこの時の修理は、左右の須弥壇の一部を切断してしまうなど、後に問題も多く指摘されることになります。その後も主要な建物や仏具等の、国宝・重要文化財への指定が続き、また遺跡の調査発掘も行われるようになりました。

昭和5年(1930)には金色堂と覆堂、経蔵の大修理が行われます。科学的かつ慎重に行われたこの修理で、金色堂は面目を一新しました。しかし世は戦時体制下に入り、寺僧にも召集者が続出、寺領内の一部の巨木は軍需品として伐採されました。また空襲の危険にもさらされましたが、難を免れ同20年(1945)終戦を迎えました。

十符の菅薦

十符の菅薦

『十符の菅薦』(近藤芳樹 著/1876)

明治9年(1876)6月〜7月、明治天皇の東北巡幸に同行した宮内省の文学御用掛・近藤芳樹の巡幸日記4巻。平泉を訪れた際の記述もあります。

◆『十符の菅薦』を読む ※タイトルをクリックすると資料の詳細を確認することが出来ます。
Noタイトル編著者名出版社出版年
1十符の菅薦 4巻近藤 芳樹‖〔著〕宮内省明治9(1876)

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戦後の混乱の中から

戦後の農地解放で寺院は財源であった農地のほとんどを失い、維持管理も行き届かない状態となります。全国的にも戦災や戦後の混乱による文化財の損傷が著しく、法隆寺の壁画や金閣寺の焼失等も相次いでいました。このような窮状を脱し文化財保護の環境を整えるため、平泉の文化的価値を内外に示そうと、昭和25年(1950)金色堂内の藤原四代遺体の学術調査が行われました。各部門の専門家を結集した調査団により、遺体の科学調査と永久保存のための処置が行われました。この画期的な事業は、学界に記録的な成果をあげるとともに、一般の平泉に対する関心を急激に高めることになりました。

このような中、昭和27年(1952)金色堂内の華鬘(装飾用の仏具・国宝)盗難事件が起きます。後に無事発見されますが、これを契機に同30年(1955)、文化財を守る収蔵庫・讃衡蔵(さんこうぞう)が建設されました。

昭和28年(1953)には平泉遺跡調査会が組織され、翌年から観自在王院・毛越寺・中尊寺と順次発掘調査が行われました。文化財の保護・調査が進むとともに観光客も増加し、同30年(1955)からは春の藤原祭りで「源義経公東下り行列」が始まるなど、さまざまなイベントも開催されるようになりました。

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昭和の大修理

金色堂は江戸時代以来、何度か修理が行われてきましたがいずれも補強の域を出ず、根本的な修理をしなければ、堂そのものの崩壊すら心配される状態になっていました。そこで昭和37年(1962)から建築・漆工芸を始めとした各部門の最高権威を総動員し、金色堂の解体修理が行われました。旧覆堂の解体移築の後、金色堂は解体され、内部の柱等の漆芸品は東京国立文化財研究所に、諸仏や台座等は京都国宝修理所に運ばれ、分担修理されました。創建当時の材料・技法を分析調査して行われた各部財の修理は困難を極め、ついに全容が解明できず復元を断念した部分もありましたが、各部門の第一人者の手により金色堂は往時の輝きを取り戻していきました。この間、中尊寺には、鉄筋コンクリートの新覆堂が建設されました。

同42年(1967)7月から組立て作業が始まり、翌年5月に落慶式が行われました。工期は5年10ヶ月、工費は1億6千余万円にのぼりました。この解体修理によって工芸美術界に数々の新資料がもたらされ、また並行して進められた文献調査と発掘調査により、平泉研究も大きく進展することとなりました。

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