世界の平泉へ

伊達統治 仙台藩の保護

江戸時代には平泉は仙台藩領になり、「古跡」として認識されていました。代々の藩主が様々な形でその整備に努めています。

初代藩主伊達政宗は元和3年(1617)にこの地を見て回り、寛永9年(1632)には中尊寺に客殿を建立しました。また、寛永年間(1624〜1643)に金色堂を修復。その際、三代の棺を開いた時の様子が、後に『奥羽観蹟聞老志』(佐久間義和著)に紹介されています。二代忠宗は中尊寺を宿坊として度々利用し、慶安2年(1649)に金色堂を修理、承応2年(1653)には白山神社を再建しました。

四代綱村は、天和3年(1683)に高舘の義経堂を建立しました。また、遺跡保存のため、礎石、箱石(建物の土台となる石)の現状変更を禁止し、平泉の随所に杉を植林していますが、元禄2年(1689)に平泉を訪れた松尾芭蕉は「夏草や…」の名句を残すこととなりました。

芭蕉来訪から10年後の元禄12年(1699)、金色堂等の大規模な修理が始まりました。ここに安置されていた三代の遺骸を仮堂へ移しての工事でした。この時、仙台藩の役人と中尊寺の僧が三代の棺を開けた様子が『平泉雑記』(相原友直著)に詳細に記録されています。

次いで五代吉村は、宝永3年(1706)、経蔵所蔵の文書を自ら閲覧、目録を整備しました。宝永6年(1709)、金色堂覆堂の屋根を修理。正徳6年(1716)には弁才天宮と拝殿を建立しました。白山社前の能楽堂は、嘉永2年(1849)1月に焼失してしまいますが、4年後の嘉永6年(1853)に再建されました。

藤原三代が滅びて五百余年の間、兵火や野火で平泉の堂塔は大半が焼失し、一部秘宝も略奪されましたが、源頼朝はじめ鎌倉幕府や北畠顕家らの保護と、寺僧らの一致結束とによって、諸寺堂、秘宝はかろうじて保護維持されてきました。しかし、これが戦国時代以降ほとんど顧みられなくなり、江戸初期には荒廃の極に達し、秘宝散逸の危機に直面しました。

このことから、四代藩主・綱村による元禄年代の組織的な保護が、中尊寺・毛越寺の秘宝や遺跡を今日に伝えたといっても過言ではありません。五代吉村とともに、平泉諸寺堂およびその遺跡の保存に最大の努力を払った綱村は学問を奨励、儒臣を厚遇して史料を整え、長じて"中世の英主"と称されました。

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奥羽観蹟聞老志

奥羽観蹟聞老志

『奥羽観蹟聞老志』(佐久間義和 著/1883)

享保4年(1719)に完成した仙台藩の地誌(全20巻)を、明治期に刊行したもの。仙台藩領を中心に名所旧跡などを記し、巻之十には寛永年間(1624〜44)の金色堂修理の記述があります。

◆『奥羽観蹟聞老志』を読む ※タイトルをクリックすると資料の詳細を確認することが出来ます。
Noタイトル編著者名出版社出版年
1奥羽観蹟聞老志 12
(巻之十収録)
佐久間 義和‖著佐久間義和1883.9
2仙台叢書 [第15巻]
奥羽観蹟聞老志 上

仙台叢書刊行会1928

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平泉雑記

安永2年(1773)の著。平泉に関する文献を広く集録したもので、筆者の見聞や説話も収められています。筆者の相原友直は、ほかに『平泉実記』や『平泉旧蹟志』なども記しており、平泉史研究の基本文献の1つです。

◆『平泉雑記』を読む ※タイトルをクリックすると資料の詳細を確認することが出来ます。
Noタイトル編著者名出版社出版年
1気仙風土草・平泉雑記〔復刻〕相原 友直‖撰述NSK地方出版〔1978〕
2南部叢書 第3冊南部叢書刊行会‖編南部叢書刊行会1928.4

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