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南北朝争乱(1) 顕家の保護

元弘3年(1333)5月、約150年続いた鎌倉幕府が崩壊します。後醍醐天皇を中心とした南朝と、足利尊氏を中心とする北朝が対立し、南北朝の争乱が始まりました。

後醍醐天皇は、北畠親房(ちかふさ)の長男で弱冠16歳だった北畠顕家(あきいえ)を、陸奥守として下向させます。このころの平泉は「金色の堂舎も皆朽損し、経蔵も同様破壊し…」と朝廷への訴状にあるほど荒廃の極に達していました。これに対し、顕家はこの保護に努め、建武元年(1334)9月に「みだりに寺域に侵入し乱暴してはならぬ」との布令を出しました。

建武2年(1335)、顕家は18歳で鎮守府将軍になり、翌年、足利尊氏を敗走させた功績で大将軍となります。顕家は平泉駐在の間、中尊寺落慶の際に清衡が読みあげた「供養願文」の存在を知り、自ら筆を執って書き写しました。この「供養願文」は中尊寺建立の趣旨を知る上で第一の史料と言われています。正本は現存しておらず、顕家の筆写と藤原輔方(すけかた)の奥書のあるものと二つの写本が残されています。

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南北朝争乱(2) 中尊寺焼失

この南北朝争乱の中、平泉で重大事件が起きました。建武4年(延元2年、1337)、中尊寺が焼失したのです。これによって、「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」(『吾妻鑑』)と謳われた中尊寺伽藍は、金色堂と経蔵のほか、閼伽堂、阿弥陀堂、峰薬師堂などを残すのみとなってしまいました。経蔵は二階瓦ぶきの建物でしたが二階は焼け、わずかに下層部だけを維持することができました。 その後、南朝方の形勢は不利となり、顕家は退勢挽回のため奥羽の精鋭を率いて南下しますが、延元3年(1338)5月、北朝方の巻き返しにより攝津(大阪府)にて21歳の若さで戦死しました。そして奥州は足利方の勢力圏に入ることとなります。

中尊寺の火災から6年後の康永2年(1343)7月、火災で損傷した鐘楼が再建されました。今も残る鐘の銘文によって、鐘楼は北朝方の奥州総大将石塔義房らによって建立されたものであることがうかがわれます。奥州探題として起用された義房はのちに入道となり、中尊寺堂塔の再建に力を尽くしました。

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