平泉アラカルト

平泉を訪れた人々(3) 菅江真澄

江戸時代中期の紀行家・菅江真澄(本名・白井秀雄、幼名・英二)[1754−1829]は、その生涯の半分以上を旅にすごし、旅日記や随筆など多くの作品を残しました。偏見のない目で、その土地の自然や人びとの暮らしを詳細に記録した真澄の著作は、近世の歴史民俗を伝える貴重で稀有な資料として高く評価されています。

菅江真澄は、宝暦4年(1754)、三河国(愛知県東部)の生まれといわれています。ただし、真澄は自分の故郷や旅に出る前のことについてあまり書き残しておらず、その前半生について正確なところはまだよく分かっていません。30歳頃から残された日記によれば、天明3年(1783)、故郷を出た真澄は、信濃国(長野県)を旅した後、その翌年に越後(新潟県)を通って、みちのくに向かっています。新潟から山形、秋田と北上し、最初はそのまま蝦夷地(北海道)に渡る予定だったようです。しかし、この当時、みちのくは天明の大飢饉の最中にありました。また、波のを無事渡れる日を占ったところ、

1/20〜2/7 平泉 千葉家 3/1〜 平泉? 3/7〜3/11 平泉 芭蕉句碑 3/27〜4/7 大東町 4/9 平泉中尊寺(初午の祭) 4/10 達谷窟、猊鼻渓 10/27 衣川 10/28 中尊寺

かすむこまがた

芭蕉が訪れた頃の平泉は、西行が見た黄金期とは違い、仙台藩四代藩主綱村が整備をはじめてはいたものの、中尊寺等の整備はまだ行われておらず、「三代の栄耀一睡の中にして」滅び、わずかに金色堂と経蔵が残るだけでした。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時の移るまて泪を落し侍りぬ

夏草や 兵どもが 夢の跡

卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の 降りのこしてや 光堂

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)
「おくのほそ道」

平泉に到着した芭蕉一行は、まず源義経最期の地と言い伝えられている高館にのぼりました。北上川と両岸に広がる古戦場跡に、義経らをしのび、世の無常さを感じながら、「時の移るまて泪を落し」たとあります。曾良の句にある「兼房」とは、室町時代に書かれた軍記物語『義経記(ぎけいき)』の登場人物・十郎権頭兼房のことです。兼房は義経の正妻・久我の姫君の守り役で、義経に付き従い、衣川の館で最後まで戦い奮死しました。

高館を後にした二人は中尊寺へ向かっています。現在、金色堂脇には、「五月雨の降りのこしてや光堂」の句碑が建てられていますが、芭蕉が金色堂を詠んだとして有名なこの句は、草稿にはなく、代わりに「五月雨や年々降りて五百たび」「蛍火の昼は消つゝ柱かな」の二句が掲載されています。この二句は、浄書の段階で抹消され、新たに案じられた「五月雨の降りのこしてや光堂」の句が残されました。これらの推敲の跡は、曾良が芭蕉から与えられ、その子孫に伝えられたといわれる「おくのほそ道」(曾良本)に残っています。

束稲山

「おくのほそ道」行脚に随行するにあたり、曾良はさまざまな書物から巡歴予定の歌枕を抜書きして、それをまとめたノートを旅に携帯しました。この歌枕覚書(名勝備忘録)のあとに収められている「元禄二年日記」には、芭蕉との旅の様子が詳細に記されており、創作部分も多い「おくのほそ道」を研究する上で、貴重な資料となっています。

平泉行について書かれているのは、5月13日(新暦6月29日)の日記です。この日の午前10時頃、芭蕉と曾良は、前日泊まった一関から平泉に向けて出発しました。

十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リに近シ(伊沢八幡壱リ余奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)
「曾良旅日記」

日記中に見える「さくら山」は西行が歌に詠んだ束稲山、月山・白山はそれぞれ月山神社・白山神社、また「シミン堂」は新御堂が訛ったもので無量光院の通称です。芭蕉の「おくのほそ道」では「二堂開帳す」とありますが、実際には、二堂のうちの1つ、経堂は、「別当が留守にて開かず」拝見できなかったことが、曾良の日記から分かります。達谷窟は遠かったため断念、また毛越寺にも立ち寄っていないようです。

芭蕉と曾良が一関の宿に戻ったのは、午後4時頃。このとき二人が泊まったと伝えられる金森邸は、芭蕉が2泊したことから「二夜庵」と呼ばれ、現在その跡地には石碑が建てられています(一関市地主町)。

「かすむこまがた」を読む

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Noタイトル編著者名出版社出版年
1おくのほそ道
付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄
芭蕉‖[著]
萩原 恭男‖校注
岩波書店1982.7
2おくのほそ道
付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄
芭蕉‖[著]
萩原 恭男‖校注
岩波書店1991.12
3おくのほそ道
現代語訳/曾良随行日記付き
[松尾 芭蕉‖著]
潁原 退蔵‖訳注
角川書店2003.3
4新編日本古典文学全集71
松尾芭蕉集2
紀行・日記編 俳文編 連句編
松尾 芭蕉‖[著]
井本 農一‖[ほか]校注 訳
小学館1997.9
5奥の細道、その他、芭蕉翁紀行集
(岩波文庫復刻版)
芭蕉‖著
伊藤 松宇‖校訂
一穂社2005.10
6完訳日本の古典55
芭蕉文集
[松尾 芭蕉‖著]
井本 農一‖[ほか]校注 訳
小学館1985.12
7校本芭蕉全集 第6巻
紀行・日記篇 俳文篇
松尾 芭蕉‖[著]
井本 農一‖[ほか]校注
角川書店1962.11
8新編芭蕉大成[松尾 芭蕉‖著]
尾形 仂‖編者代表
三省堂1999.2
◆英語で読む(英文併記)
Noタイトル編著者名出版社出版年
1おくのほそ道
The narrow road to oku
芭蕉‖[著]
ドナルド キーン‖訳
講談社インターナショナル1996.10

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