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いわての神楽

森口多里『岩手県民俗芸能誌』

森口多里『岩手県民俗芸能誌』
錦正社 1971 [当館所蔵]

数多くの民俗芸能が伝承されている岩手。平成23年の調査では、岩手県全体で1,126の民俗芸能が確認されています。なかでも神楽は、鹿踊(ししおどり)や剣舞(けんばい)に次いで多く伝承されています。

民俗学者の森口多里によると、民俗芸能が成立し存続していく条件として「自然的条件」「歴史的条件」「社会的条件」及び「媒質としての俗信」があると言います。

岩手県は、古来霊峰と謳われた早池峰山や岩手山、姫神山を擁していたことから、多くの山伏たちが活動していました。また、神道を厚く信仰した10代盛岡藩主・南部利敬の存在や、明治初頭の神仏分離による修験道の衰退も、岩手の神楽の変遷をみる上では欠かせない歴史的な条件です。さらに、北上川沿いの穀倉地帯や三陸海岸といった豊かな自然を背景に農業や漁業が盛んであることから、豊作・大漁を神に感謝し祈願するという背景が、神楽が今日まで受け継がれてきた大きな要因となっています。

『岩手県民俗芸能誌』

奥州市水沢出身の民俗学者・森口多里が岩手県内の民俗芸能について調査したもの。広大な県土をもつ岩手県の民俗芸能を網羅的に採集し、論考している貴重な資料である。

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山伏神楽

岩手では、神楽が最も多く無形民俗文化財に登録されておりそのなかで最も多く伝承されているのが山伏神楽です。ユネスコの無形文化遺産に登録されている花巻市の早池峰神楽や、国の重要無形民俗文化財である宮古市の黒森神楽、普代村の鵜鳥(うのとり)神楽はいずれも山伏神楽に分類されます。

山伏神楽は獅子頭を権現として奉るのが特徴です。権現とは、神仏が依り代を介して現世に現れることを言います。獅子頭を用いて舞う権現舞は山伏神楽において最も重要なもので、神仏の超越的な力で災いを祓い、火伏、五穀豊穣、無病息災など人々の安泰を祈祷します。

岩手県の山伏神楽は、中世期頃、各地を旅し修行する山伏から伝えられたといわれています。詳しい由来は不明ですが、早池峰山などが霊山として修験道の霊場になっていたこと、北上盆地から岩手山麓地方に羽黒山や熊野山などの祠を立て祀った山伏がいたことなどが理由ではないかとされています。

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黒森神楽 [国指定重要無形民俗文化財](宮古市)

黒森神楽

黒森神楽
[写真提供:(一社)宮古観光文化交流協会]

宮古市の黒森神社に継承されている山伏神楽です。黒森神楽は、修験者のカスミ(修験道における地域ごとの支配・管轄地域)廻りの伝統を神楽巡行によって現代に受け継ぐ数少ない神楽集団として知られています。

神楽は黒森神社の神霊を移した獅子頭を携えて陸中沿岸の家々を廻り、庭先で権現舞を舞い悪魔祓いや火伏の祈祷を行います。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、五穀豊穣・大漁成就や天下泰平などの祈祷の舞を行い、人々を楽しませ祝福をもたらしています。こうした広範囲で長期にわたる巡行を行う神楽は、全国的にも類例がなく、いにしえの習俗が現在も継続されているたいへん貴重なものです。

同じく神楽巡行を現在に伝える普代村の鵜鳥神楽とともに、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

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鵜鳥(うのとり)神楽 [国指定重要無形民俗文化財](普代村)

鵜鳥神楽

鵜鳥神楽
[写真提供:普代村役場 農林商工課]

普代村に伝承されている山伏神楽です。「三拍子」という荒々しく速いリズムに乗り、勇壮かつダイナミックに舞うのが特徴です。演目は50ほどもあると言われていますが、現在ではすべてが演じられているわけではないようです。正月の8日にその年の巡行の舞立ちが行われるほか、旧暦の4月8日に鵜鳥神社の例大祭で神楽の奉納が行われています。

鵜鳥神楽は、鵜鳥神社にある獅子頭を権現様として携え、毎年1月から3月にかけて三陸沿岸の広域を一年おきに北廻りと南廻り交互に廻ります。この神楽の巡行は、宮古市の黒森神楽と並んで全国的に類例を見ない貴重なものです。平成7年(1995)には「陸中沿岸地方の廻り神楽」として黒森神楽とともに国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に選定され、その後平成23年(2011)には岩手県指定無形民俗文化財となっています。

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大乗(だいじょう)神楽

企画展「いわての神楽」展示風景

北上・花巻の旧和賀地方に多く伝わる神楽です。法印神楽(山伏神楽の一種。舞台中央に大乗(だいじょう)と呼ばれる天蓋を下げて行う)の影響を受け、手の振付や踏み足、九字(加持祈祷の作法)など、修験道の呪法を取り入れ祈祷色を強く残しているのが特徴です。舞の中には、7日間にわたって特別な修行をし、法印の資格を得た者しか舞うことができないものもあります。

大乗神楽は、早池峰神楽と同じく山伏神楽の一種ですが、演目の名称も舞い方も全く異なります。北上市の和賀大乗神楽は、昭和49年(1974)に花巻市の円万寺神楽とともに「山伏神楽」として県指定無形民俗文化財に登録されました。しかしその後、神楽に対する調査・研究が進展し、山伏神楽と大乗神楽の系統の違いが明らかになったことから、一度登録を解除して「花巻の山伏神楽」と「和賀の大乗神楽」に区別し、指定し直されています。

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和賀大乗神楽 [県指定無形民俗文化財] (北上市)

北上市和賀町煤孫(すすまご)に伝えられる神楽です。元は600年以上前に同市の貴徳院で始まった「貴徳院法印神楽」とされます。慶応の末、佐藤寅次郎が萬法院という山伏から手ほどきを受け、久しく途絶えていた貴徳院法印神楽を再興させたことが、現在の和賀大乗神楽のはじまりといわれています。

山伏神楽の一種ですが、修験の呪法の名残が強く、舞振りに神秘的な雰囲気を醸し出しています。

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宿(しゅく)大乗神楽 [県指定無形民俗文化財](北上市)

北上市二子町下宿(しもじゅく)集落に伝わる神楽です。もともとこの地区には山伏神楽に由来する権現舞がありましたが、明治30年(1897)に村崎野の妙法院和田永全が旧二子村下宿の八幡宮宮司・千田行全に大乗神楽を伝えたことから宿大乗神楽が始まったとされています。

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社風(みやぶり)神楽

企画展「いわての神楽」展示風景

神道を厚く信仰した10代盛岡藩主・南部利敬は、社家の行う神楽に「社風神楽」という名称を付けました。社家とは神職を世襲する氏族のことをいいます。つまり修験道の山伏神楽とは異なる、神道の神楽ということです。

社風神楽の代表的なものには、盛岡市の大宮神社に伝わる大宮神楽や、滝沢市の田村神社に伝わる篠木神楽があります。社風神楽は神道の神楽ではありますが、大宮神楽や篠木神楽は、演目や舞振りなどに古い山伏神楽と共通の部分がみられ、修験道との関連性もうかがえます。一方で、二戸市の呑香(とんこう)稲荷神社に伝わる神代神楽のように、修験道色が払拭されているものもあります。

明治初頭に修験禁止令が政府から発布されたことにより、修験系の権現社や権現宮は神社として活動するようになります。その過程で、もとあった山伏系の神楽を改め、神職系の社風神楽にしたということもあったようです。

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篠木神楽 [県指定無形民俗文化財](滝沢市)

篠木神楽

篠木神楽より「三方荒舞」
[写真提供:滝沢市教育委員会文化振興課]

滝沢市篠木の田村神社に伝わる社風神楽です。社風(社家=神職)の神楽のとおり、田村神社社家の斎藤氏に代々伝えられてきました。

斎藤氏はその歴史の中で玉山村の修験・西福院との間で諍いがあったことから、篠木神楽は、修験道の山伏神楽とは一線を画すものとして社風神楽に分類されています。

しかしながら権現舞に「胎内巡り」らしい舞振りが見えるなど、古い山伏神楽の要素も見受けられます。

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江戸舞神楽

横川良助『内史略』

横川良助『内史略 后六』
〔江戸時代後期〕 [当館所蔵]

文化3年(1806)、神楽に都会的芸風の導入を求めた10代盛岡藩主・南部利敬の命により、大清水の多賀金毘羅神社の神職・山田吉穂と神楽社人が一年間江戸へ留学し、江戸神楽を習得しました。古い江戸の里神楽から学んだ江戸舞は、神楽歌やセリフなどはほとんどなく、身振り手振りによる無言の所作だけで筋を運ぶのが特徴です。

多賀神社にはもともと山伏系の多賀神楽がありましたが、能や狂言の要素を随所に取り入れた「多賀神楽 江戸舞」は市井で人気を博し、次第に江戸舞神楽の印象を強めていきます。多賀神社の江戸舞神楽は、盛岡藩が廃藩になるまで南部家公儀の神楽として伝えられます。明治以降は、伝承者を何度かなくしながらも、盛岡市の指定文化財に登録されるなどして保存に努めていましたが、昭和51年(1976)に最後の継承者が没して以来途絶えています。

『内史略 后六』

10代盛岡藩主・南部利敬が多賀神社の山田伊豆(山田吉穂)に江戸で神楽を学ばせたことについては、盛岡藩の歴史資料『内史略』に記載がある。神道に厚かった利敬は、歴代盛岡藩主の中で最も神事につとめたといわれている。
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多賀神楽(盛岡市)

多賀神楽の舞振りを現在に伝えるものとして、神楽の演目を描いた12枚の絵額があります。絵額は、元は多賀神社の御旅所(神社の祭礼において御神体を乗せた神輿が巡行の途中で休憩または宿泊する場所)であった榊山稲荷神社に奉納されていましたが、のちに大宮神社に移されて現在に至ります。

多賀神楽に江戸舞を導入した山田吉穂は、作家・山田美妙の先祖に当たります。

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南部神楽

岩手県南、旧伊達藩領に継承されている神楽です。古くから行われていた法印神楽や山伏神楽に、地域の農民らの手によって奥浄瑠璃や伝説などの説話から取り入れた狂言風の劇舞が組み込まれ、新たに生み出されたものと言われています。

本来、神楽は宗教者だけが行う特別なものでした。しかし、明治初頭の修験道廃止をきっかけに、旧伊達藩領で山伏(法印)たちの力が弱まります。するとそれまで密かに法印たちの神楽を真似て舞っていた農民たちは、自由に里神楽を組織するようになります。演目に工夫を凝らし、従来の神楽を自由な感性で独自の神楽に作り上げていったのです。南部神楽は、その成り立ちから、式舞(神々に奉納する演目)や舞台装置等に山伏・法印神楽の宗教性を残しながらも、劇舞(式舞以外の演目)では舞手がセリフを高らかに唱えるなど娯楽性に富んだ面も併せ持つのが特徴です。民俗学者の森口多里は、その特徴をもって「セリフ神楽」と称しています。

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布佐(ふさ)神楽 [県指定無形民俗文化財](一関市)

布佐神楽

布佐神楽

布佐神楽
[写真提供:一関市教育委員会 文化財課]

一関市川崎地区に伝わる神楽です。文久3年(1863)に同市相川地区から伝わったのが始まりとされます。のちに同市東山町松川の法印から法印神楽を学び「倭書記神楽(かぐら)」の巻物を伝授され、今日に継承される芸風の基礎が培われました。その後、式舞を充実させ、劇舞に源平盛衰記や曽我兄弟夜討などの説話を神楽向けに脚色して加えたことで娯楽性が高まり、南部神楽として現代に引き継がれています。

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