津波防災の町・田老の礎を築いた

関口 松太郎(せきぐち まつたろう) [1862-1937]

花輪村(現宮古市)出身の関口松太郎は、1883年(明治16)に長沢村(現宮古市)役場に勤めて以来、兵役をはさみつつも、長年の行政経験を経て、1925年(大正14)に田老村長となりました。この間、郡役所職員として、1896年(明治29)の明治三陸津波、1904年(明治37)の宮古大火など、数々の災害を経験しています。

1933年(昭和8)3月3日、田老村を最大波高10メートルの津波が襲います。多くの命が奪われ、家屋や漁船も大きな被害を受けましたが、関口が手早く県知事・下閉伊支庁長に救援を要請したため、救援の手は当日のうちに届きました。翌日、村会議員に非常召集がかけられ、その年の秋までには、防波堤の建造や避難道路の整備、区画整理などを含む災害復旧工事計画が立てられました。国や県は多額の費用を要する防波堤建造には冷淡で、集落全体の高所移転を復興策の基本と考えていましたが、翌年3月、田老村は村費を投じ、単独で防波堤の建造に取りかかります。復興工事視察のために県知事が来村した際、関口の復興にかける情熱と、村民の強い防災意識とが当局の理解を生み、最終的には村・県・国の三者が一体となり、防波堤の建造に取り組むこととなりました。関口は志半ばにしてこの世を去りましたが、その意志は代々の首長に引き継がれ、高さ10メートル、総延長約2.5キロメートルの防波堤が、「津波防災の町」のシンボルとして築かれました。

参考文献

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