関東大震災後の東京復興に尽力

後藤 新平(ごとう しんぺい) [1857-1929]

胆沢郡塩釜村(現奥州市水沢区)出身の後藤新平は、須賀川医学校卒業後、内務省衛生局・台湾民政局長・初代満鉄総裁・鉄道院総裁・東京市長などを歴任し、数多くの分野で業績を残しています。関東大震災後の復興にまつわるエピソードは、東日本大震災以後、多くの新聞・雑誌で取り上げられました。

1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生。被害は1府6県に及び、被災者340万人、死者・負傷者・行方不明者あわせて15万人以上にものぼる大災害でした。焼け野原と化した東京を目の当たりにした後藤は、すべての行きがかりを投げ打って入閣し、東京復興の大役を担うことを決心します。

この震災を理想的新都建設の好機と考えた後藤は、「復興は単に一都市の問題ではなく、日本の発展、国民生活の根本問題」、「地震は何度もくる。今後、大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」との信念に基づき、復興に関する国・自治体の権限全てを集約した特設機関・帝都復興省の設立や、41億円復興計画などを立案しました。復興省案は閣議で否決されましたが、妥協案として他省と同格の帝都復興院が設立されることとなり、後藤は内相兼復興院総裁となります。予算も大蔵省との折衝の過程で徐々に縮小し、最終的に6億円余りの復興計画に落ち着きましたが、大正11年の一般会計予算が約14億円だったことを考えると、この計画がどれほど破格のものであったかが分ります。

参考文献

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