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啄木の生涯

幼少時代~『あこがれ』刊行

企画展「第34回 啄木資料展」テーマ展示展示風景

石川啄木(本名 一)は、明治19年(1886)岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら/現盛岡市日戸)の常光寺に生まれました。父は同寺の住職であり、啄木誕生の翌年、一家で隣村の渋民村(現盛岡市渋民)宝徳寺に移り住みました。

啄木は渋民尋常小学校を卒業後、盛岡高等小学校に進み、同31年(1898)、盛岡尋常中学校(後に盛岡中学校に改称)に入学しました。上級生の金田一京助(きんだいち きょうすけ/言語学者)や野村胡堂(のむら こどう/小説家、銭形平次の作者)らの影響を受けて文学に興味を持ち、文芸誌『明星』を愛読して歌作を始めます。やがて文学活動に熱中し過ぎて学業を怠るようになり、同35年(1902)5年生の秋に退学、文学で身を立てることを決意し上京します。

『明星』主宰の与謝野鉄幹(よさの てっかん)・晶子(あきこ)夫妻を訪問し知遇を得ますが、職を得られず東京での生活に行き詰まり、病を患って帰郷します。その後故郷で暮らしながら文芸雑誌に作品を発表し続け、少年詩人として注目を集めるようになります。同37年(1904)に再び上京、翌年5月詩集『あこがれ』を刊行しました。

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結婚~北海道流浪

新婚時代の啄木と節子
[写真提供:石川啄木記念館]

明治38年(1905)19歳の啄木は中学時代からの恋人・堀合節子(ほりあい せつこ)と結婚、盛岡市に新居を構えます。宝徳寺の住職を罷免された父も含め、一家の生活を啄木が一身に背負う中、友人の援助を得て文芸誌『小天地』を発行しました。盛岡中学時代の旧友から、与謝野鉄幹など中央の著名な文学者まで多彩な面々の寄稿がありましたが、経済的に成功せず1号で廃刊、生活の窮迫から渋民に帰り、母校渋民小学校の代用教員となります。長女京子(きょうこ)も生まれ、「日本一の代用教員」を自負して意欲的に生徒に対しますが、校長排斥のストライキ事件を起こし、1年で免職となります。

同40年(1907)5月啄木は家族と別れ、北海道に渡りました。函館で文芸誌『紅苜蓿(べにまごやし)』の同人・宮崎郁雨(みやざき いくう)らに迎えられ、小学校の代用教員と新聞記者の職を得ます。しかし函館大火のため3ヶ月で職を失い、以後新聞記者として、札幌、小樽、釧路を転々としました。「釧路新聞」では編集一切をまかされるなど敏腕をふるいますが、同41年(1908)4月釧路を去り、家族を函館の郁雨に託して、創作活動に専念するため単身上京しました。

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上京~朝日新聞入社

啄木と金田一京助
[写真提供:石川啄木記念館]

明治41年(1908)4月上京した23歳の啄木は、東京帝国大学を卒業して中学校教師となっていた学生時代の先輩・金田一京助の下宿に転がり込みます。ここで日夜創作に没頭し「菊池君」「病院の窓」などの小説を書き上げますが、いずれも出版社には売れず、金田一の月給が実際、二人の生活費となりました。11~12月に小説「鳥影」を「東京毎日新聞」に連載し、上京後初めての収入を得ますが、文壇の反響は乏しかったようです。

翌42年(1909)、前年終刊した『明星』の後身として『スバル』が創刊されました。啄木は最初の1年間、発行名義人を引き受けるとともに、多くの作品を発表しました。しかし、なかなか小説は評価されず、文学的にも生活的にも極度に行き詰まります。

同年3月、生活に窮した啄木は、盛岡出身の「東京朝日新聞」編集長・佐藤北江(さとう ほっこう)を頼って、同新聞社の校正係となります。収入の安定を得た啄木は、本郷弓町(ゆみちょう/現在の文京区)の床屋「喜之床(きのとこ)」2階に間借りし、家族を呼び寄せました。

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『一握の砂』刊行~終焉

明治43年(1910)、啄木は『二葉亭四迷(ふたばていしめい)全集』の校正を任され、また9月からは「東京朝日新聞」紙上に設けられた「朝日歌壇」の選者となりました。翌月、誕生間もない長男真一(しんいち)の死去に遭いながらも、12月には歌集『一握の砂』を刊行しています。この歌集は、生活を歌うという独自の内容と、三行書きという新しい表現形式で歌壇内外の注目を集めました。

同年6月、幸徳秋水(こうとく しゅうすい)ら社会主義者が天皇暗殺の陰謀容疑で逮捕された「大逆事件(たいぎゃくじけん)」が起こります。啄木は事件の検証に熱意を燃やし、この事件が当局により捏造されたものであることを知ります。これを契機に、啄木は社会主義思想に関心を深めていきました。

同44年(1911)2月、啄木は慢性腹膜炎のため入院します。3月に退院してからは肺結核を患い、妻と母も相次いで病に冒されました。病気と貧困に苦しみながら創作を続けた啄木でしたが、同45年(1912)4月13日に亡くなりました。享年26歳。第二歌集『悲しき玩具』は、その死の2ヵ月後に刊行されています。

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