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第1章 ロマン主義・天才主義期

ロマン主義文学

企画展「第34回 啄木資料展」テーマ展示展示風景

ロマン主義とは18世紀ヨーロッパに興った文化・精神運動です。それまで主流であった古典主義・教条主義(理性的・合理的で「完全な美」を求める)への反発から生まれ、個人の主観を重視し、自我の解放と確立を目指しました。恋愛や自然賛美、過去への憧憬、民族意識の高揚など、抒情的かつ感情的な表現がその特徴です。ロマン主義の潮流は文芸・美術・音楽・演劇など様々な分野に及び、西欧近代国民国家の形成にも寄与することとなります。のちにその反動としての自然主義・写実主義をもたらしました。

日本では明治中頃に西欧ロマン主義の影響を受け、森鴎外(もり おうがい)の小説『舞姫』によってロマン主義文学が始まりました。その他小説では樋口一葉(ひぐち いちよう)『たけくらべ』や国木田 独歩(くにきだ どっぽ)『武蔵野』、泉鏡花(いずみ きょうか)『高野聖』など、詩歌では島崎藤村(しまざき とうそん)『若菜集』や与謝野晶子『みだれ髪』、評論では高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)『美的生活を論ず』などがロマン主義文学の主な作品として挙げられます。大正初期には自然主義への移行によって衰退しますが、「ロマン主義の終焉した大正時代」という意味を込めて、当時の文化世相を「大正浪漫(たいしょうろまん)」と呼んでいます。

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啄木の初期創作

石川啄木『あこがれ』
小田島書店 明治38年

明治中頃の日本歌壇は雑誌「明星」を中心とした浪漫派が多く活躍していました。当時中学生だった啄木は情熱的なロマン主義文学、および高山樗牛をはじめとする天才主義思想に傾倒していきます。自らも文学者を志し、生活苦や一家扶養の義務に追われながらも文学への野心を捨てず、19歳で詩集『あこがれ』を刊行し若き天才詩人としてデビューします。

初期の啄木作品からは、やや大仰で浮世離れした印象を受けます。啄木はのちに自らの詩作を振り返り、「実感を詩に歌ふまでには随分煩瑣な手続を要した」「空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日に(中略)した上でなければ、其感じが当時の調子に合はず、又自分でも満足することが出来なかつた」、また当時の心境として「朝から晩まで何とも知れぬものにあこがれてゐる心持」「其心持の外(ほか)に私は何も有(も)つてゐなかつた」と述べています。この時点での啄木は詩人をもって自ら任じながらも、作品に込める強い思想性を持つにはいまだ至らず、浪漫派の作風を模倣するにとどまっていたと考えられます。

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北海道時代を経て

啄木(左下)と函館・苜蓿社同人たち
[写真提供:石川啄木記念館]

実生活を顧みることなく文学に没頭していた啄木も生活の困窮は如何ともしがたく、明治39年(1906)、故郷渋民村の小学校代用教員として働き始めます。「教育の真の目的は人間をつくることである」として子どもの自主性・創意性を引き出すことを目指した啄木の教育論は、教育勅語に則る当時の画一的な教育にあっては非常に先進的なものでした。しかし理想が高すぎた故か村人との折り合いが悪く、翌年にはストライキ騒ぎを起こし免職となります。

同年5月、心機一転を図り渡った北海道の地から啄木のさらなる苦難が始まります。最初の函館では同じく代用教員の職を得ますが、こちらは大規模校であった為に理想の教育を行う余地がなかったと見え、渋民時代の熱心さは失われてしまいます。8月からは新聞記者との兼業を行いますが、勤め始めた矢先に函館大火によって2つの職場を失います。その後も職を求めて札幌・小樽・釧路と約一年間の漂流生活を続けた啄木は、辛い現実生活に直面せざるを得なくなったことにより、徐々にその思想を変化させてゆくこととなるのです。

札幌時代までの啄木は「予が天職はついに文学なりき」「社会主義は要するに低き問題なり」と書くなど、いまだ文学を現実生活よりも高尚なものと捉えている節がありました。しかし小樽での社内紛争(暴力事件)を経ての翌41年(1908)元旦には、「この驚くべき不条理はどこから来るか。いう迄もない社会組織の悪いからだ」として初めて社会主義運動への理解を覗かせています。啄木の意識が空想的ロマンチシズムからリアリズムへと向かった一つの転換点と見ることができます。

またちょうどその頃東京で起こった自然主義の潮流は、遠く北海道の啄木の耳にも届いていました。釧路時代の評論『卓上一枝(たくじょういっし)』では自然主義について言及し、思想・文学の両分野に跨る新たな運動として期待を寄せています。さらに、自ら依拠してきた「一元二面観」哲学を「一種の生活幻想ではあるまいか」としてその限界を認めており、これまでの思想を脱しつつあることが窺えます。

再び創作熱の高まった啄木は、「小生の文学的運命を極限まで試験する決心」で最後の上京を行います。

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啄木と小説

『あこがれ』以降の啄木は、次第にその興味を詩歌から小説へと移していきます。思想を表現するにあたっては、文字数の少ない詩歌よりも、登場人物に託して語ることのできる小説の方が適していると考えたためでした。渋民代用教員時代には自らをモデルにした小説『雲は天才である』や、『面影』『葬列』といった作品を執筆しています。しかし公開された作品は少なく、創作ノートには未完の作品が多数残されています。

北海道漂流を経ての明治41年(1908)4月、5度目の上京をした啄木は、小説家として生計を立てるべく執筆に専念します。そして『菊池君』『母』『病院の窓』『天鵞絨(びろうど)』『二筋の血』など多くの作品を書き上げ売り込みますが、全く売れずに困窮することとなります。自らの命運を賭けての勝負であっただけにその落胆は大きく、また啄木を頼りに北海道で知らせを待つ家族を呼び寄せることも叶わずに、啄木の苦悩はいよいよ深刻なものとなっていきます。

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小説から短歌へ

企画展「第34回 啄木資料展」テーマ展示展示風景

一方、小説が認められない苦悩の中で、啄木は実に多くの短歌を残しています。啄木はその理由として「ちやうど夫婦げんかをして妻に敗けた夫が、理由もなく子どもを叱ったり虐めたりするやうな一種の快感を、私は勝手気儘に短歌といふ一つの詩形を虐使することに発見した」と語っています。私たちがよく知る啄木短歌は、小説を書けなかった挫折感から生まれたものでもあったのです。

啄木は生涯に3000から4000程の短歌を作ったとされていますが、最も多く作歌した時期がこの明治41年(1908)であり、特に6月23日から27日までの5日間でなんと260首もの歌を詠んでいます。追い詰められた啄木から、爆発的に歌があふれ出してきたかのように思われます。この時期の創作は歌稿ノート『暇ナ時』にまとめられ、のちの歌集『一握の砂』への足掛かりとなります。

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新しい短歌

啄木は短歌創作を再開するにあたり、従来の短歌の定型から離脱し、新しい歌の作り方を見出そうとしていました。エッセイ『歌のいろいろ』では、「凡そ全ての事は、それが我々にとつて不便を感じさせるやうになつて来た時、(中略)遠慮なく改造を試みるが可い」「我々の歌の形式は萬葉以前から在つたものである。然し我々の今日の歌は何處までも我々の今日の歌である」と語っています。5.7.5.7.7.の一行書き下しから3行書きへの移行、字余り・字足らずの多用、また自然や季節の描写にとどまらずに思いつくままを平易な言葉で表現するなど、独自の歌風を生み出しました。

自ら「歌は私の悲しい玩具である」と語っているように、本当に書きたかった小説ではなく短歌が評価されたことは、啄木にとっては不本意なことであったかもしれません。しかし、短歌とはこうあるべきという既成概念を壊し、実際の生活に即した抒情詩として生まれ変わらせた啄木の功績は、日本近代詩の発展過程において非常に大きいものであったと言えます。

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若き日の思想

企画展「第34回 啄木資料展」テーマ展示展示風景

当時流行していた進化論は、日本では「優勝劣敗・適者生存」という思想として、富国強兵政策など様々な主義主張を裏づける議論に利用されました。

啄木が中学時代から傾倒した高山樗牛は、進化論やニーチェの主義を踏まえて個人主義、天才論を唱えます。これは競争原理のもと、本能、権力意志を重んじて自己の発展と個人の解放を図ろうとする欲望自然主義、個人的なロマンチシズムとも言える思想でした。『岩手日報』掲載の「古酒新酒」で啄木は、「凡庸なる社会は、一人の天才を迎へんがためには、よろしく喜んで百万の凡俗を犠牲に供すべき也」と書いており、教育論「林中書」も、樗牛の天才論を踏襲して天才主義の考え方が色濃く反映されています。

このようにエリート意識をまとっていた啄木ですが、「樗牛に目を覚まして、戦つて、敗れて、考へて、泣いて、結果は今の自然主義(広い意味における)!」と日記にその敗北を記しています。啄木は天才主義を棄て、強者由来のナショナリズムを棄て、相互競争に代わり社会をより進歩させる新しい考えを模索していきます。

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