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第3章 社会主義思想との邂逅

社会主義の思潮

自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想や運動、体制が社会主義です。社会主義は、生産手段の社会的共有と管理を目指す共産主義(特にマルクス主義)とその潮流を指し、各種の社会改良主義、社会民主主義、一部の無政府主義、国家社会主義なども含めた総称でもあります。産業革命のあと、資本主義が浸透したことで貧富の差が広がる中、こうした考え方が提唱されました。全てが国の所有となるので国民全員が平等になり、そのため大きな貧富の差がなくなるのが社会主義の大きな特徴です。しかし、競争がなくなることで経済の発展が停滞してしまう傾向があります。

ロシア革命により世界初の社会主義国家ができたことで、日本では自国の皇室などを批判する社会運動が起こるようになります。この運動を取り締まるため、のちの大正14年(1925)に制定されたのが治安維持法です。社会変革の考えをもつ作家は、それぞれの立場から様々な作品を発表しましたが、治安維持法と特別高等警察による社会主義、共産主義的思想の弾圧は年々厳しくなっていきました。

大逆事件と啄木

大逆事件(幸徳事件)とは、刑法第73条に規定されていた皇室に対する危害を禁じる「大逆罪」により、明治43年(1910)6月に幸徳秋水らが逮捕され、翌年1月に24人に死刑判決が下るものの、恩赦による減刑で最終的に12名が処刑された事件です。

当時は新聞紙条例などの制約から自由な記事が書けない時代でしたが、東京朝日新聞社に勤務していた啄木は、本件の犯罪に関する一切の記事を差し止めるという報道管制から、この事件が権力者側によって捏造された冤罪である可能性が高いことを悟っていきます。友人の弁護士・平出修(ひらいで しゅう)より関係資料を借覧、裁判の様子や裁判記録内容を知った啄木は、事件の真相を後世に伝えようと当時の新聞記事を集めて記録を取ったり、獄中からの幸徳の書簡を写し取り、自らの注や感想を加え「A LETTER FROM PRISON」としてまとめたり、また評論「所謂今度の事」「時代閉塞の現状」を書いたりしています。

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社会主義と文学

企画展「第34回 啄木資料展」テーマ展示展示風景

社会主義文学は社会主義的自覚に立脚した文学の総称で、1920~30年代、プロレタリア文学の世界的高揚期に発展を見ました。社会主義国家の増大、資本主義国家及び植民地における社会主義運動の拡大を背景に現れた、素材、方法、主題などにおいて個人主義文学とは異質な文学です。

日本では1900年代初頭、徳冨蘆花(とくとみ ろか)の『黒潮』第1編、木下尚江(きのした なおえ)の『火の柱』、『良人の自白』などの作品が現れ、児玉花外(こだま かがい)が『社会主義詩集』を出版、さらに白柳秀湖(しらやなぎ しゅうこ)の『駅夫日記』、啄木の評論「時代閉塞の現状」などが続きました。 明治の社会主義文学、大正中期の労働者文学の時期を経て、大正末年から昭和初年に至るプロレタリア文学運動の時代へとその系譜は続いていきます。

プロレタリア文学運動は、気分を反映する文学を排除し、アナーキズム(無政府主義)、社会民主主義、アバンギャルド(前衛)などの反資本主義的、反権力的な要素を持つ雑多な思想を経て、マルクス主義文学運動に純化、結晶していく過程とも言え、同人雑誌『種蒔く人』の発刊がその先駆けとなりました。

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啄木と社会主義

啄木は明治39年(1906)渋民時代、「余は、社会主義者となるには、余りに個人の権威を重じて居る。さればといつて、専制的な利己主義者となるには余りに同情と涙に富んで居る。所詮余は余一人の特別なる意味に於ける個人主義者である」と日記に書き、社会主義とは距離を置いています。

同40年(1907)札幌で啄木は、小国露堂(おぐに ろどう)の勧める社会主義に関して「所謂社会主義は予の常に冷笑する所、然も小国君のいふ所は見識あり、雅量あり、或意味に於て賛同し得ざるにあらず、社会主義は要するに低き問題なり然も必然の要求によって起れるものなり」と言いますが、翌41年(1908)1月、小樽で社会主義の演説会に行き、西川光二郎(にしかわ こうじろう)の演説に深い感銘を受け、社会主義は自分の思想の一部分であると友人に語っています。そして「今は社会主義を研究すべき時代は既に過ぎて、其を実現すべき手段方法を研究すべき時代になって居る」と言いました。

「百回通信」第23回(『岩手日報』同42年11月14日)で啄木は、「聖代の恩沢」という言葉を使いながら、社会主義を肯定的に論評しています。

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啄木思想の到達点

明治43年(1910)啄木が大逆事件を念頭に置いて書いたといわれる評論「時代閉塞の現状(強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察)」では、広い視野のもとに社会と個人との関係を観察し、明日への方向を暗示しており、啄木の思想を知るうえで『悲しき玩具』『呼子と口笛』の詩歌と表裏をなす重要なものとされます。

瀬川深(せがわ ふかし)宛の手紙(同44年1月9日)には、「僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない、むろん社会主義は最後の理想ではない、人類の社会的理想の結局は無政府主義の他にない」「僕はクロポトキンの著書をよんでビツクリしたが、これほど大きい、深い、そして確実にして且つ必要な哲学は外にない」「無政府主義はどこまでも最後の理想だ、実際家はまず社会主義者、若しくは国家社会主義者でなくてはならぬ」と書いています。

同44年(1911)のこと、啄木は金田一京助に対し、幸徳一派の考えに重大な過誤があることを悟ったとして、自分の抱く思想を仮に「社会主義的国家主義(社会主義的帝国主義)」と表現したそうです。

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継がれゆく思想

啄木肖像写真
[写真提供:石川啄木記念館]

啄木は、人間に必要なのは時代や社会に追従して上昇・出世することではなく、既成のものごとを批評しながら向上を目指す心である、と考えました。その理想の先は共同原理に基づく、民主主義と平和主義、そして福祉主義の相互扶助の社会だったと言えます。

時代の文芸思潮、社会思想とともに変化した啄木自身の主義・思想は、その時々の作風に反映されていきます。安楽とはいいがたい漂泊の営みが啄木に求めたのは、甘美なロマンに浸ることであり、厳しい実生活の克服であり、全ての国民が等しく幸福に暮らせる社会の切望でした。

啄木には、自分の思想が時代より一歩進んでいるという自負がありました。当時の社会情勢と自身の病により自由な活動は阻まれたものの、「僕の野心は僕らが死んで、僕らの子供が死んで、僕らの孫の時代になつて、それも大分年を取つた頃に初めて実現される奴なんだよ」(『我等の一団と彼』)とあるように、自分の抱いた理想の芽が潰えることなく、次世代に受け継がれ穏健な改革を経て、のちの時代に確かに発現されるのを期待したのです。

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