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川を想う 川を詠む

川のある岩手の美しい風景は、歌に詠まれ、絵に描かれてきた。特に盛岡の名所であった北上川の舟橋は、盛岡城下の象徴的な風景として、岩手山とセットで描かれた。また、この地を訪れた旅人たちも風景に魅せられ、旅日記などにその美しさを書き記している。遠く故郷を離れたものとっては、望郷の思いをかきたてられる風景だったのだろう。川のある風景は、現在この地に生きる私たちにとってもまた、心の深くに原風景としてありつづけていくのではないだろうか。

盛岡八景図

請求記号:22/89

「盛岡八景図」

「盛岡八景図」

盛岡周辺の景勝地を八つ選び、一枚の刷り物にしたもの。明治26年(1893)7月20日の『岩手公報(現岩手日報)』1000号の附録として、盛岡藩の絵師であった川口月嶺の原画を印刷したものである。江戸末期、新山舟橋付近を中心に選んだ「舟橋八景」を盛岡八景と呼ぶこともあった(安庭晴嵐、北上川帰帆、高嶋夜雨、鑪山秋月、舟橋夕照、沢田落雁、円光寺晩鐘、岩手山暮雪)。

東北遊日記

請求記号:00/5

吉田松陰が、嘉永4~5年(1851~52)にかけて東北地方を歴遊した際の紀行文。ロシアの船が北方の海に出没することを知り、その防備状況を確かめ、また同志と国事を談じるために旅立ち、その帰路に見た盛岡藩領内の様子が記されている。中津川、北上川やそれに架かる舟橋、磐井川についての記述なども見受けられる。

平泉雑記

請求記号:22.3/58

気仙郡高田村出身の相原友直(1703-82)の著作で、奥州藤原氏三代はもとより源義経に関する説話や関東や京都などに伝わる資料を取り上げ、平泉に関する文献を広く収録し、詳しく考証している。「北上河衣河館」では、北上川や衣川について、「昔ノ地図」や西行法師が詠んだ和歌などから考察を加えている。

陸奥日記

請求記号:22/67

「陸奥日記」

「陸奥日記」

文政元年(1818)に央斎が記した江戸から蝦夷地松前までの紀行文の写本と見られる。日記とともに、沿道各地の風景が描かれている。「奥州南部花巻駅入口長橋豊沢川(花巻市豊沢橋)」では、豊沢川とそこに架かる長橋、橋のたもとの北側にある一里塚が記され、一里塚について「是則日本一里塚」と称している。

旧蹟遺聞

請求記号:22/14

盛岡藩の名所旧跡について考察したもの。盛岡藩の国学者黒川盛隆が藩命により執筆したが、後に弟子の梅内祐訓・坂午助丁・三輪秀福の著とした。文化3年(1806)に刊行され、装丁違いの3種類の本があり、重版したものと見られている。「北上河」では、水源を「岩手郡御堂村」とし、「加美川」に由来する「北上川」の名称などについて考察している。

〔張込帳〕奥州森岡一ノ瀬村山崎清左衛門家

請求記号:04/9

「張込帳」奥州森岡一ノ瀬村山崎清左衛門家

「張込帳」奥州森岡一ノ瀬村山崎清左衛門家

「奥州森岡一ノ瀬村」の山崎清左衛門の家族について述べた、文政5年(1822)の銘がある木版摺りもの。143歳の清左衛門、妻さん139歳の夫婦をはじめに、5代の長命夫婦一家が紹介されている。この家族は、文政5年の江戸日本橋掛け替えの渡り初めをしたとされており、長寿の家族にあやかる縁起物として、摺りものにして販売されたもの考えられる。

甲子夜話

請求記号:049/マ21/1-1イ

肥前国平戸藩主松浦清(静山)の随筆で、大名・旗本などの逸話や市中の風習など自己の見聞が記されている。文政4年(1812)11月17日甲子の夜から書き始めたことから、書名がついた。盛岡藩の長寿家族について、第十巻では「世にも有難き目で度きこと」として取り上げられ、第二十巻では世間の噂を聞いて成り済ました者が現れたことが記されている。

半日閑話

請求記号:918.5/オ2/1-18

(「大田南畝全集 第18巻 雑録Ⅱ」より)

狂歌三大家の一人大田南畝(1749-1823)の見聞した市井の雑事を記した随筆。「百姓山崎清右衛門」家族が行ったとされる日本橋の渡り初めは、橋の将来を家や生命の永続に仮託して祈願する橋供養とされ、盛岡藩領内の上の橋や夕顔瀬橋渡り初め供養が行われたことが『内史略』などにも見える。

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