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いわての川とその遺産

岩手県は、県の中央部を北上川が悠々と南に流れ、そこへ東西の高地や山脈から大小さまざまな支流が注ぎ込んでいる。また、北部には馬淵川が東流している。これらの河川は、太古の昔より岩手の大地を潤し、豊かな穀倉地帯が形成される源となってきた。北上川をはじめとする大小の河川は、古くから人々の暮らしと深く結びつき、川を舞台とした伝説なども生まれてきた。川にまつわる“遺産”は、今なお私たちの身近な場所に残され、息づいている。

奥々風土記

請求記号:22/28

「奥々風土記 1」北上川

「奥々風土記 1」北上川

第15代盛岡藩主南部利剛の命により、盛岡藩士の江刺恒久(1826-1900)が盛岡藩内の風土記を記したもので、郡ごとに村名、寺社、山川、温泉、城、関道について記されている。江刺恒久は、武家故実や国学を修め、藩校の教授を務めた人物である。維新後は神祇省・教部省に出仕し、のちに東京で私塾を開き、国学を教えた。

坐遊記零本

請求記号:新/22.9/1

「坐遊記零本」沼宮内御堂の観世音

「坐遊記零本」沼宮内御堂の観世音

京都の医師・橘南谿(たちばななんけい)が記した『東西遊記』に倣い、寛政10年(1798)に白華(詳細不明、序文から盛岡藩の人であることが分かる)が、陸奥南部の名所古跡や社寺・温泉や古実・伝説などを図入りで紹介したもの。「沼宮内御堂の観世音」では、境内の清水は前九年合戦に際し、飢渇に悩まされた「義家将軍」が「弩牙(大型の弓)」で地をうがったところ湧出したものと伝える。

盛岡砂子

請求記号:新/22/19、22/11

「盛岡砂子」(新/22/19) 盛岡旧図

「盛岡砂子」(新/22/19) 盛岡旧図

菊岡沾涼による江戸の地誌や社寺、名所の由来などを記した「江戸砂子」に倣い、盛岡藩士の星川正甫(1805-80)が著した、盛岡城下とその周辺地域に関する地誌。天保4年(1833)の初稿以来、明治7年(1874)まで修正が加えられている。巻頭に「盛岡旧図」、「寛永盛岡図」、「盛岡全図(天保四年ノ図)」が掲げられている。

弓弭(ゆはず)清水碑拓本

請求記号:21.9/13/4

「御堂観音」の名で知られる北上山新通法寺正覚院に建てられた石碑の拓本。文久元年(1861)に江戸寛永寺寿昌院光映が当地を訪れた際に詠んだ漢詩と弓弭(ゆはず)清水の由来を記したもの。題字を慧澄(江戸浄名院の学僧か)が、碑文を書家高斎有常が記し、江戸の石工広瀬群鶴が刻した。

岩手郡東中野村い印地割小絵図

請求記号:明/37

東中野村の21に区割りされた地割ごとに書かれた絵図の一つで、「い」印の絵図。江戸時代後期の検地の際に、いろは印ごとに割図が作成されたが、明治になって「いろは」が「123」の数字に置き換えられ、地割として引き継がれた。21枚の小絵図を作成し、その後合わせて大判の岩手郡東中野村絵図を作成したとみられる。

岩手郡東中野村絵図

請求記号:明/857

「岩手郡東中野村絵図」部分(舟橋周辺)

「岩手郡東中野村絵図」部分(舟橋周辺)

(岩手郡東中野村明治四辛未年春郷村為御吟味打直被申付候砌調方吟味出張官員廻村百間四寸積取調候分間絵図面)

明治4年(1871)春に行われた検地の際に作成された東中野村(現在の盛岡市神子田町・茶畑・東中野付近)の地割絵図。北上川に架かる舟橋や、円光寺の東隣には輸送業務の一切を取り仕切る「御船所」が見える。舟橋の西側には門が見え、江戸時代、材木役所が置かれた場所は「木バ御預地」となったと思われる。

二日町新田絵図

請求記号:江/36

「二日町新田絵図」部分

「二日町新田絵図」部分

(志和郡二日町新田弘化三年春郷村為御吟味御竿打直被仰付候砌御調吟味出役御勘定方廻村百間四寸積取調候分間絵図面)

郡山城下(現紫波町二日町)に栄えた二日町の付属地の地割絵図。「御仮屋(代官所)」や「御蔵」があり、蔵から五内川(現岩崎川)河口付近にあったといわれる郡山河岸に年貢米などが運ばれた。弘化3年(1846)に完成した承慶橋が描 かれている。北上川の中に中島を築きその両側に橋を架けたものだが、嘉永3年(1850)の洪水により南半が流失した。

高木村絵図

請求記号:江/124

(稗貫郡高木村天保十四年秋為御吟味御竿打直被仰付候砌書上絵図面)

天保14年(1843)の検地の際に作成された絵図。貞享3年(1686)に北上川の河道改修が行われると、小舟渡地区は花巻城下に隣接するようになり、年貢米を津出しする河岸として栄えた。「川岸前」から、南西に向かう道は「南御蔵米出道」、「八幡宮」(小舟渡八幡宮)を通る道は「西御蔵米出道」と記され、「為御登米(おのぼせまい)川岸出道」とも呼ばれていた。

黒沢尻村里分絵図

請求記号:江/165

「黒沢尻村里分絵図」部分

「黒沢尻村里分絵図」部分

(和賀郡黒沢尻里分弘化二年春郷村為御吟味御竿打直被仰付候砌御調吟味出役御勘定方廻村百間四寸積取調候分間絵図面)

弘化2年(1845)春に行われた検地の際に作成された黒沢尻村里分の絵図。北上川と黒沢川が合流する周辺には黒沢尻河岸があり、堀で囲われた藩御蔵や御ひらた所が置かれ、船の修理を行う「谷木繕所」もあった。前九年合戦を戦った源頼義が再興したといわれる「観世音」(観音堂)や、公儀献上用の初鮭を獲る「大留(立花留)」も記されている。

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