• 岩手の山々と恵み
  • 山への畏怖
  • 山へ祈る、詣でる
  • 描かれた山・詠まれた山

現在位置: トップページ > 岩手の山々と恵み

岩手の山々と恵み

岩手の風景に山は欠くことができない。岩手において四方の一方にでも山がない景観があるだろうか。いつの時でも私たちは、山に抱かれて暮らしてきた。私たちの心のなか、原風景にはそのシンボルとして山が存在するであろう。

岩手の山々は、さまざまな恵みをもたらし、岩手の人々は、山の恵みを享受してこの地に命をつなぎ続けてきた。山野草、樹木、鉱物資源などが、産業を生み、また産業が人々の暮らしを潤す。そのような山に人々は、感謝し、祈りを捧げ、山の恵みを守り受継いできた。

『産物御不審物図』に紹介されている、染料の原料植物のアカネやムラサキは、岩手山麓に産するものが特に品質がよく、また薬用としても珍重された。寛政6年(1794)には江戸幕府に献上され、盛岡藩は重要な産物として栽培を奨励し専売とした。染色技法もアカネやムラサキの品質の良さを生かした南部地方独特の発達をしたといわれている。上質な染物は、江戸、京や大阪で換金され、領内を豊かにした。

また、山あいに暮らす人々の間で伝えられてきたものに田山暦というものがある。江戸時代中期、冷害や凶作の被害を受けやすい山あいの農民を救うために、農業経営の目安を文字読めない人にも理解しやすいように絵で表現した暦である。まさに、山あいの里に生きる知恵が生み出したものといえるであろう。そして、それは驚くべき知恵としてシーボルトにより世界に紹介されることとなった。山とともに生きる、先人の思いや知恵は今もなお私たちへ受継がれている。

盛岡藩領内図

請求記号:新/22.3/7

「盛岡藩領内図」岩鷲山の部分

「盛岡藩領内図」岩鷲山の部分

盛岡藩の所領全体を描いた領内図。郡村名に村間の里数、街道に一里塚、湊や河川や諸山など地理情報が豊富に書き込まれている。岩鷲山(岩手山)の部分には、「貞享三年春三月初ヨリ山焼煙見超テ年不消」と記され、噴煙が描かれている。元禄期(1688-1703)に作成された国絵図を縮小し、簡素にした絵図と考えられる。

御邦内郷村志

請求記号:22/6

「御邦内郷村志」高山部

「御邦内郷村志」高山部

寛政9年(1797)に盛岡藩士の大巻秀詮が福岡通や田名部通の代官を務めるかたわら編纂した盛岡藩内の地誌。はじめに盛岡城や盛岡周辺の地理などを紹介し、次いで領内の寺社、領内の高山や河沼、温泉を列記する。各郡の戸数に続き、通(縣)ごとに産物や各村の戸数や名所・寺社仏閣が漢文で記されている。

郷村古実見聞記

請求記号:32/37

盛岡藩士の阿部知義(九兵衛)が記した新田開発、各種の普請、検地定目に関する記録をまとめたもの。阿部知義は、算術・測量術などにおいて卓越した知識を持ち、その知識を生かして川普請奉行や御雇勘定方として藩内の検地で活躍した。当資料には、「岩鷲山焼崩並神官別当之事」や「日本国中高山御詮議之事」などの記事も見える。

産物御不審物図 3巻

請求記号:60.9/4

「産物御不審物図 2」えぞ松

「産物御不審物図 2」えぞ松

幕府の命令により書上げた盛岡藩領内産物のうち、形態不明のものを図に表わしたもの。

奥々風土記

請求記号:22/28

「奥々風土記 1」岩手山

「奥々風土記 1」岩手山

盛岡藩主南部利剛(なんぶとしひさ 在位1849-68年)の命により、盛岡藩士の江刺恒久が盛岡藩内の風土記を記したもので、郡ごとに村名、寺社、山川、温泉、城、関道について記されている。江刺恒久は、武家故実や国学を修め、藩校の教授を務めた人物である。維新後は神祇省・教部省に出仕し、のちに東京で私塾を開き、国学を教えた。当資料には恒久の子により恒久の年表も付されている。

奥南国中都鄙山海産物記

請求記号:新/60.9/1

文久2年(1862)に盛岡藩士の神安就が、盛岡藩領内の産物を記したもの。代官所(通)ごとに村々の特産物が列記されている。雫石通では、「所々御山」の特産物として「木の子類」・「五尺長木」・「楢柾」・「紫蕨」が挙げられ、山菜や材木となる樹木、鉱物資源など岩手の山々の恵みが見える。

紫茜染秘法

請求記号:08/2/35

植物のムラサキとアカネの根からとった染料で染めあげる方法について記した古記録を、郷土史家であった太田孝太郎が書き写したもの。岩手山麓に産する「紫」や「茜」は特に品質がよく、盛岡藩は重要な産物として栽培を奨励し専売とした。また宮澤賢治は『紫紺染について』という童話を残している。

雫石通御山林絵図

請求記号:新/65/19

「雫石通御山林絵図」

「雫石通御山林絵図」

慶応元年(1865)9月に雫石通の10村の御林(藩の用材を保護した山林)の調査を行った際に作成された絵図面。盆地を囲む山々の名称、川(青)、道(朱)、寺社、御山・御林名などが書き込まれている。この年2月7日の城下の大火により近郷の御側御林・御留山などで材木用の伐採が命じられているが、それに関連した資料であることも考えられる。

雫石通御山書上帳

請求記号:65/38

慶応元年(1865)閏5月に雫石通の繋村と安庭村の御山肝入が、村内の山林を新たな立林(林木を保護するために伐木や狩猟を禁じた山林)に取立てもらうよう盛岡藩に願い出た際に作成した台帳。山林ごとに、管理者、山林の範囲、植生(樹木の種類)などが記されている。『岩手郡安庭村矢櫃御山百間一寸積縮図』はこの願い出に関連して作成された絵図と考えられる。

諸木植立秘伝鈔

請求記号:新/65/17

著者は不明であるが、山野を廻って研究した植林に関する知見を天保13年(1842)にまとめて記したもの。盛岡藩領内の植林に適した土について述べ、また「杉ハ大迫通ハ御国一也。御領分一流に広く植るものなれば土地の善悪によって早俄取莫大の利潤、国家の賑いとなり。諸民を救い助る根元となれば一入心を尽べし」と述べている。

〔諸書留〕

請求記号:新/56/14

27条からなる御山法(鉱山に関連して働く人々の掟)について問合せがあった際、口頭で伝えたものの覚書。はじめの3条(鑿角送、金格子破、番欠切羽明)は罪の重いもので、謀叛や関所破の罪に準じた上、さらに耳鼻を取り、片髪をそって山を追放されるという。2度と立ち入ることができないように山内では張紙が永久に貼られるという厳格な掟であった。

新山見立秘伝書

請求記号:56/4

「新山見立秘伝書」

「新山見立秘伝書」

山の登り方、鉱脈の場所、鉱脈の堀り方など山の見立について図入りで記されたもの。山を「木・火・土・金・水」の5つの種類に分け、そのうち水性の山について「北より根さして峯つづきたるを云。草木沢山なるべし。金堀曰此山上中下段共金有べし」などと記され、その山の見様は「口伝」とされている。

東遊記

請求記号:00/46

「東遊記」

「東遊記」盲暦の紹介

京都の医師である橘南谿(たちばななんけい)が、天明4年(1784)に京都から東海道、東山道、北陸道を医学修行の旅をした際の見聞記。寛政7~9年(1795-1797)に出版された。田山地方の「盲暦」、「絵心経」が図入りで紹介されている。橘南谿が旅行中に聞き及び、実際に見ることが叶わず、聞いたまま記したという。

ページの一番上へ