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山へ祈る、詣でる

昔、山は神霊の住む霊地として崇められ、農民たちには水田稲作を守る水分の神とされ、猟師たちには獲物を授けてくれる山の女神が宿ると信じられていた。

伝承によると、平安時代初期の武将・坂上田村麻呂が国家鎮護のために、岩手山に三尊の阿弥陀を安置して岩鷲山大権現社を創建したという。また、文治5年(1189)の奥州合戦後、奥州に下った工藤小次郎行光は、源頼朝によって岩手郡の地頭に任じられ、岩鷲山宮司となったと伝えられる。近世においては盛岡藩の「領内総鎮守」として南部氏の崇敬を受け、盛岡藩領内の安穏が祈願されていた。

登山は「お山がけ」といわれ、精進潔斎して白衣をまとい登った。不浄不潔の者が登山を行った場合には必ず強風・強雨となり、行方不明者を出すといわれ、明治中頃まで女性の入山は禁止されていた。江戸末期より、岩手山への参詣者が急増したらしく、文政2年(1819)には町人らの寄付によって、岩鷲山参詣の道しるべの碑が麓より頂上まで10本建てられた。北口の登山口には、登山道に二合目から八合五勺目まで文政5年(1822)に建立された9本が現存している。重い石碑や資材を背負っての登山は想像を絶する行為である。これこそが、岩手山の神に対する信仰の証となった。心のよりどころである山へ登る=詣でるという行為で、神威を体感し、また神へ直接祈りを届けるのであろう。

内史略(后六) [岩手山登山道に道標設置]

請求記号:21.5/1

「内史略(后六)」岩手山登山道に道標設置

「内史略(后六)」岩手山登山道に道標設置

文政2年(1819)に岩手山の柳沢口登山道に山麓から頂上まで十本の道標が建てられ、不動平に休息所の小屋(沼宮内接待小屋か)が設置された。江戸時代末期から岩手山への参詣者が急増したらしく、岩鷲山を信仰する町人の寄附により建てられたようである。その後、平笠口にも道標が建てられ、山頂に三十三観音の石像も建立されている。

陸中国岩手山及網張温泉道中絵図

請求記号:22/90

陸中国岩手山及網張温泉道中絵図

「陸中国岩手山及網張温泉道中絵図」

明治15年(1882)に元盛岡藩士の沢村亀之助(陸中国南岩手郡大沢村五拾八番地)により発行された定価四銭の観光案内地図。盛岡の夕顔瀬橋を起点にした滝沢からの岩手山登山ルートと雫石からの登山ルートに加え、網張温泉までの行程と里数が記されている。当時、年々増えていた網張温泉の湯客と岩手山登山者に供するため作成された。

陸中国網はり温泉真景

請求記号:22/90

陸中国網はり温泉真景

「陸中国網はり温泉真景」

明治15年(1882)に沢村亀之助により刊行された網張温泉の絵図。明治になり利便性を考え、網張温泉への道を開拓し、また温泉から岩手山山頂までの道も開いたためこの地図が作成された。湯治場の様子と網張温泉からの岩手山登山道が図示されている。「新暦五月廿日比ニ浴場ヲ掃除シ十月十七日比ニ商舎ヲ閉ツルトナシ」と記され、明治の湯治期間も知られる。

雫石通細見路方記

請求記号:22/53

雫石通細見路方記

「雫石通細見路方記」

岩手郡雫石村の絵図入り名所案内。雫石の名前の由来や温泉・名所などが紹介されている。網張温泉を紹介した部分では、由来とともに「然ニ入浴あれば雨降寒気おこりて五穀ニさわる故此比入湯禁断となる」と記されている。文政10年(1827)に禁を破り入浴したものが盛岡藩の役人により捕えられた際の落書もみられる。

書画帖(南昌山記)

請求記号:新/71/2

書画帖(南昌山記)

「書画帖(南昌山記)」

元禄6年(1693)に徳ヶ森(毒ヶ森)から南昌山へ改称した由来を記したもの。儒学者林凰岡(はやしほうこう)に学んだ藩学教授の根市政徳が漢文で草し、祐筆(文書や記録を記す役職)や側役などを務め書家としても知られる盛岡藩士の鴨沢恒茂がそれを書した。中国の唐の太宗の弟が洪州(江西省南昌)に滕王閣(とうおうかく)を建てた際に唐の詩人王勃(おうぼつ)が詠んだ『滕王閣序』の「南昌故郡、洪都新府」を盛岡藩になぞらえ命名されたようである。

〔張込帳 早池峰霊峰全図〕

請求記号:04/9/2

「張込帳」早池峰霊峰全図

「張込帳」早池峰霊峰全図

明治16年(1883)8月15日に早池峰社務所より発行された早池峰霊峰全図。遠野市上附馬牛大出の早池峰神社里宮から小田越、御門口、御金倉、龍ヶ馬場、御田植場、早池峰山という現在の小田越の登山ルートが記されている。江戸時代は早池峰大権現の別当寺妙泉寺であったが、明治初年の神仏分離で早池峰神社と改称した。

尾去沢大日山神堂記

請求記号:16/50

現在は大日霊貴(おおひるめのむち)神社と称し、大日堂舞楽で知られている。南部氏の崇敬が厚く、度々の寄進や祈祷の依頼が行われ、また尾去沢銅山の祈願所とされていた。江戸幕府は、正徳5年(1715)に輸出用の銅に制限を加えるため、各銅山に輸出用の銅を割当てた。尾去沢銅山へも割当てられたが、盛岡藩は銅産出が減少していることを理由に割当ての減額を申し出ている。当資料は、この際の銅産出が増えるよう、また新たな鉱脈が見つかるよう尾去沢の山神に祈願した際の願文とも考えられる。

〔五葉山神社石棟札拓本〕

請求記号:21.9/13/75

住田町の五葉山山頂付近にある五葉山神社の社殿扉にある銘文の拓本。江戸時代まで五葉山権現と呼ばれ、五葉山西麓にあった大泉寺が別当をつとめていた。気仙郡総鎮守とも伝えられ、寛延3年(1750)に別当の十郎右衛門が気仙郡大肝入の吉田宇右衛門に大破した社殿の造立のため盛岡藩領境の御林の払い下げを願い出た。吉田宇右衛門が願主となり郡内各村から寄付を集め、寛政3年(1791)に石ノ宮を建立した。

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