宮沢賢治

更新日:令和6年1月16日

岩手県立図書館「賢治文庫」には、童話『注文の多い料理店』や生前出版された唯一の詩集『春と修羅』の初版本のほか、賢治の遺言によって、彼の死後父が千部作成して知友に配った『国訳妙法蓮華経』など貴重な資料があります。

当館で所蔵している宮沢賢治の作品の一部を、「イーハトーブ岩手電子図書館 宮沢賢治」で公開しています。

宮沢賢治 略歴

岩手県出身 享年37歳。作家であり詩人。

明治29年(1896年)
岩手県稗貫郡花巻町(現在の花巻市豊沢町)に長男として生まれる。
家業は古着屋兼質屋。
この年、三陸大津波、陸羽大地震、大洪水、大雨が相次ぎ、死者多数。
明治35年(1902年) 6歳
赤痢で2週間入院。
この年も低温、冷雨などにより東北地方は大凶作。
明治36年(1903年) 7歳
花巻町立花城尋常高等小学校に入学。
この年、東北地方は前年の凶作で飢饉。
明治42年(1909年) 13歳
花城小学校を優等で卒業。県立盛岡中学校(現、盛岡第一高等学校)入学。
親元を離れて、寄宿舎自彊寮(じきょうりょう)に入る。
この頃より、短歌を創作し始める。鉱物採取に熱中。
大正2年(1913年) 17歳
寄宿舎を追放され、北山の清養院(曹洞宗)に下宿。
大正3年(1914年) 18歳
盛岡中学校卒業。
大正4年(1915年) 19歳
4月、盛岡高等農林学校(現、岩手大学農学部)に首席で入学。寄宿生活となる。
大正5年(1916年) 20歳
この頃より、「アザリア」「校友会会報」を通じて多数の短歌を発表する。
大正7年(1918年) 22歳
盛岡高等農林学校を優等で卒業、同校の研究生として残る。
菜食主義となる。妹トシが発病、上京し看護にあたる。
この頃より、童話を書き始める。
大正8年(1919年) 23歳
妹トシの全快により、共に帰郷。家業を手伝う。
大正9年(1920年) 24歳
地質学研究科を終了。
田中智学の国柱会に入会し、法華経信仰に励む。
大正10年(1921年) 25歳
1月に上京。出版社「交信社」に勤務。親友、藤原嘉藤治と知り合い、音楽に熱中。
12月、郡立稗貫農学校の教諭となる。
大正11年(1922年) 26歳
「春と修羅」を手がけるなど、詩作活動が旺盛となる。
11月27日、妹トシが死亡。
大正13年(1924年) 28歳
「春と修羅」「注文の多い料理店」を自費出版。
大正14年(1925年) 29歳
詩誌「貎」「銅鑼」の同人となる。この頃より、オルガン、セロを独習。
昭和元年(1926年) 30歳
3月、花巻農学校を退職する。花巻下根子の別宅で農耕自炊生活を始める。
8月、羅須地人協会を設立。稲作、科学論を展開しながら、青年達と音楽を合奏する。
昭和2年(1927年) 31歳
2月、「岩手日報」に顔写真入りの記事が出る。
肥料設計、稲作指導を活動的に行なう。詩作活動にも励む。
昭和3年(1928年) 32歳
過労と栄養不足のため、急性肺炎で病床に伏す。
この頃より、各種雑誌に作品を発表。
昭和6年(1931年) 35歳
東北砕石工場の技師となる。石灰の宣伝販売のため上京するが発熱し、帰郷。
再び病床に伏す。11月3日、「雨ニモマケズ」を書く。
昭和7年(1932年) 36歳
病床で高等数学を勉強。「児童文学」に「グスコーブドリの伝記」を発表。
昭和8年(1933年) 37歳
各雑誌に多くの詩を発表。
9月20日、急性肺炎となり、9月21日、37歳で永眠。

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