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山への畏怖

山は多くの恵みを私たちにもたらす一方、時に自然の圧倒的な脅威をみせつけることがある。その力の前では、人間の存在も自然の一部とならざるを得ない。そのような山の脅威を人々の心深く記憶させた出来事に、岩手山の噴火があるだろう。

残されている岩手山の噴火の記録で、最も古いものは天和3年(1683)とされている。記録上、最も火山活動が激しかったのは貞享3年(1686)から元禄2年(1689)まで続く噴火である。『内史略』によると、貞享3年3月2日雷が鳴渡ったのち、北上川の水が濁り、諸木や家財などが流出した。「同三日の晩七ツ時過に空晴、岩鷲山焼、頂上は夥敷黒煙立、及暮に随ひ火の色見得、幅一間程長さ十丁に及候様に相見得申候」と記される。幕府への岩鷲山噴火の報告では、城下でも火山灰が降ったことも伝えられている。噴火から10年後に幕府の命令で作成された国絵図には、噴火した岩鷲山の姿が描かれている。この時の岩手山の噴火は前代未聞のこととして、人々に強烈な印象を与えた。

享保4年(1719)には、岩手山の北東中腹から溶岩が流出し、これが現在の国指定特別天然記念物の焼走り溶岩流となった。しかし、人畜への被害はなかったといわれている。文政6年(1823)には火山性の地震が発生している。

近代に入ってからは、大正8年(1919)7月に西岩手山大地獄付近に噴火があった。また、平成10年(1998)から16年(2004)年にも火山性の地震が頻発し入山規制されたことは記憶に新しい。予期せぬ岩手山の火山活動は、私たちに自然の脅威を再認識させる。

岩鷲山焼崩附御届書

請求記号:21.5/35

「岩鷲山焼崩附御届書」

「岩鷲山焼崩附御届書」

貞享3年(1686)の岩手山噴火についての記録の写し。内容は、概ね下記の『内史略』の記録と同じである。「火気幅一間長さ十丁に及見得、城下迄灰降申候」と、城下からみた岩手山の噴火の様子が、盛岡藩から江戸幕府へ報告されたようである。

内史略(前十) [貞享3年の岩手山噴火]

請求記号:21.5/1

「内史略(前十)」貞享3年の岩手山噴火

「内史略(前十)」貞享3年の岩手山噴火

『内史略』は、横川良助が記した前編24冊・後編20冊からなる盛岡藩の歴史書。その中にみられる岩手山の最も大規模な噴火活動であった貞享3年(1686)の噴火についての記録部分である。2月29日から3月4日にかけての噴火の様子と、幕府への報告、10月3日に噴火鎮静のため岩手山に「岩鷲山正一位大権現」の位階が与えられたことが記されている。

内史略(后六) [文政6年の岩手山火山活動]

請求記号:21.5/1

「内史略(后六)」文政6年の岩手山火山活動

「内史略(后六)」文政6年の岩手山火山活動

文政6年(1823)9月には岩鷲山の火山活動による地震が起こっている。焼崩(噴火)することはなかったが、西根8ケ村で家屋が大破する被害が出ている。その他の地域では地震は強くなく、翌7年3月頃までには鳴動も弱くなったと記されている。盛岡藩より家屋の建て直しの費用や死者や被害があった家に対して救済が行われた。

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