世界の平泉へ

世界遺産へ

昭和47〜52年(1972〜77)観自在王院の復元整備が行われ、同55年(1980)からは毛越寺の庭園整備と続き、遺跡周辺の景観が整えられていきました。

このような中で昭和63年(1988)、北上川堤防とバイパス道路建設に伴う柳之御所遺跡の発掘調査が始まりました。この調査で大量の遺物が出土し、遺跡は政庁「平泉館」である可能性が明らかになり、保存を要望する声が高まりました。平成5年(1993)、国は計画を変更、遺跡は保存されることになりました。この保存運動の高まりが、今日の平泉に対する評価の先駆けになっています。

世界遺産登録

平成12年(2000)から、世界遺産を目指す運動が始まり、翌年には国連教育科学文化機関(ユネスコ)の暫定リストに登載されました。推薦書の主題を「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観」とし、同20年(2008)の世界遺産登録に臨みましたが、浄土思想の世界的な意義や構成資産との関連性が不十分などの理由で、登録延期の勧告を受けました。その後、構成資産を絞り込むなどし、同22年(2010)に推薦書の名称を「平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として提出、今年6月パリで開かれた第35回世界遺産委員会で登録が決定しました。

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世界遺産を目指す岩手県内のその他の遺跡

御所野遺跡(一戸町)

御所野遺跡は、昭和57年(1977)に岩手県一戸町で発見された縄文時代中期後半の遺跡です。発見当時、農工団地としての開発が進んでいましたが、住民の遺跡保護活動に行政がすばやく対応し、遺跡を保存することに決まりました。平成5年(1993)には国指定史跡となっています。

広大な台地のほぼ全面に600棟以上の竪穴住居跡が見つかっており、配石遺構が環状に置かれた広場を中心に、東、中央、西の三つの集落が配置され、配石遺構の周囲には墓穴が発見されています。遺跡周囲に人工物は見当たらず、一部の針葉樹を除けば、ほぼ縄文時代の植生に近いものになっています。このことからも、縄文時代の社会構造を知るうえで貴重な遺跡といえます。現在では、博物館を併設した御所野縄文公園として、周囲の環境も合わせて保護・活用されています。

平成20年(2008)に開催された世界遺産条約関係省庁連絡会議において、三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)をはじめとした4道県12市町にある縄文時代の15遺跡群「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の一つとして世界遺産暫定リストに登載が決まり、世界遺産登録を目指しています。

橋野高炉跡(釜石市)

橋野高炉は安政5年(1858)、盛岡藩士大島高任の指導で建設され、国内最大にして36年間という長い期間操業された高炉(製鉄所の主要設備。鉄鉱石から銑鉄を取り出すための炉のことで、溶鉱炉とも呼ばれる)です。

幕末、鎖国していた日本への諸外国の接近を背景に、幕府や沿岸諸藩は海防のために大砲製造や、造船など多くの西洋技術を積極的に導入していきました。その根幹となる西洋の製鉄技術の導入はオランダ人ヒュゲーニンの著書を頼りに進められ、安政4年(1857)大島高任が大槌通甲子村大橋(現:釜石市甲子町大橋)で日本初の洋式高炉建設に成功しました。この洋式高炉建設は、不安定で強度も不充分だった従来の"たたら製鉄"と違い、大砲を作るのに適した銑鉄(鉄鉱石を高炉で還元した不純物を含む鉄のこと)の連続出銑を可能とした点で、大きな技術革新となりました。

大橋に続いて建設された橋野高炉は、日本の製鉄技術の近代化の先駆けとなった現存最古の洋式高炉として、昭和32年(1957)に国指定史跡となり、現在では『九州・山口の近代化産業遺産群』と連携し世界遺産登録を目指しています。

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