世界の平泉へ

藤原氏以後 鎌倉時代

文治5年(1189)9月、奥州合戦により藤原氏は滅亡しました。この際、藤原氏の居舘である平泉館は焼失しましたが、中尊寺を始めとする平泉諸寺院は兵火を免れ健在でした。みちのく辺境の地に豪華、優美に展開された平泉文化は、征服者である鎌倉武士たちに深い感銘を与えました。頼朝は奥州から鎌倉に帰って間もなく、永福寺の建立にとりかかりますが、その様式は中尊寺大長寿院(二階大堂)を真似させたといわれています。

頼朝は戦後処理の一環として、平泉諸寺院に対し安堵状を与え、積極的に平泉を保護する方針を打ち出しました。さらに、建久6年(1195)9月には、奥州総奉行葛西清重、伊沢家景に対し、「平泉の寺塔、とくに修理を加うべき」旨の指令を出しています。

時代は下って、嘉禄2年(1226)11月8日、毛越寺の金堂円隆寺と嘉勝(祥)寺が焼失しました。原因は不明ですが、『吾妻鏡』はこれを惜しみ"霊場の荘厳はわが朝無双"だったと記しています。

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北条政権 荒廃する寺塔

正治元年(1199)頼朝が急死し、鎌倉では後継者をめぐる争乱や土地問題をめぐる争いが相次ぎます。政権争いの末に北条政権が確立されるものの、土地問題をめぐる争いは各地に拡大していきました。

平泉諸寺院の間にも寺領地の収益をめぐる争いが起こります。特に奥州総奉行・葛西宗清を始めとする地頭らと平泉各寺との対立抗争は幾度となく続きました。葛西氏は当初、頼朝の寺院保護政策に忠実に努めていましたが、弘安年代(1278〜1287)ごろから平泉諸寺院の寺領を侵すようになり、寺側が幕府に直訴するようになります。これに対し幕府は頼朝の方針を継承し、平泉の言い分を認め、保護に尽くしました。

しかし、創建以来180余年の歳月が流れた中尊寺は寺塔の損傷もひどくなり、弘安10年(1287)8月、中尊寺一山衆徒は幕府に寺塔の修理を願い出ます。これに対し幕府も「平泉寺塔修理五年計画」を立て、翌年に金色堂の覆堂を建立、さらに嘉元2年(1304)に経蔵を修理します。しかし北条政権の弱体化により、平泉諸寺院は更なる荒廃の危機に直面します。

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