平泉のはじまり

奥州藤原氏と平泉のはじまり

奥州藤原氏は、平将門の乱で活躍した武将で、ムカデ退治の伝説でも知られる藤原秀郷(ひでさと)の子孫と言われています。清衡(きよひら)の父である藤原経清(つねきよ)は、現在の宮城県南部を本拠とした豪族でした。

11世紀中ごろ、現在の岩手県の中央から南部にかけての地域では、豪族・安倍氏が勢力を広げていました。これを恐れた朝廷は、武将である源頼義を陸奥守として派遣し、安倍氏との間で合戦となりました。戦いは安倍氏が優勢で苦戦した源氏は、現在の秋田県地方に勢力を持っていた豪族・清原氏を味方につけ、安倍氏を滅ぼしました(前九年合戦 1051-1062)。

安倍氏の娘を妻としていた経清は、この戦いで安倍氏側に加担し敗れて処刑されました。当時7歳だった息子清衡は、母である安倍氏の娘が敵方の清原氏に再嫁したため、清原一族となって生き延びることになります。

それから20年後、安倍氏を滅ぼした清原家で家督相続をめぐる争いが起こります。長男・真衡(さねひら)の死後、清衡と異父弟・家衡の争いとなり、さらに陸奥守として派遣された源義家(頼義の息子)が清衡軍に加わり大きな合戦となりました(後三年合戦 1083-1087)。この合戦で清原氏は滅亡、勝ち残った清衡は、その後本拠地を平泉へ移し、ここに平泉の歴史が始まることになるのです。

こうした悲惨な戦いを生き抜いた清衡は、長治2年(1105)から中尊寺造営に着手し、主要な堂塔が完成した大治元年(1126)には大法要を営み、戦争のない理想郷を造りたいという趣旨の願文を読み上げたと言われています。その後初代清衡に続き、二代基衡(もとひら)・三代秀衡(ひでひら)と、平泉の威容は歴代当主によって整えられていきました。

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